今朝は気持ちよく晴れているというのだろうか、これからの一日が、それは清々しい一日となることを予感させる朝だ。谷に差し込んできた朝日の陰影ががそう伝えているのかも知れない。2日間続いたひとまとまりの雨に、大気はすっかり水洗いされ、澄んでいる。澄んだ大気は、光の反射具合にも影響を及ぼしている様子も違う。川に降ろされた光と影のコントラストを見ていると、ぼくも家の中からその光の中へ出て行って、心中を照らしたい。そのように窓から外をいっとき眺めていれば、あることに気づく。大気と綴ったばかりに、川と空の間の空間に意識しているようである。いつもは、その奥の山々の木々の色に目が行くのだが、その手前に蓄えられた大気に焦点があっている。川はいつにも増して流れている。水洗いと書いたばかりか、その流れは洗濯機の排水のように、堰を切ったように流れている。ここで、排水と書いたばかりが、汚れが流れていると思ってしまったのだろうか、清流と呼び、いつもたくさんの恩恵を与えてもらっている四万十川に申し訳なく思う。しかし、川が汚れを、汚れと呼ばれるものを、海に向かって流していってくれるのは、確かであろう。浄化と呼ぶと、なんだか先程の申し訳なさが、幾分軽くなった(上から降ってきたものは、下に流れていく。これは、自然の摂理なのだろう。朝のコーヒーを口にしながら我が身の生態系と見比べてみる)。しかし、浄化という言葉から、連想されたのは、上に登っていく煙である。それは、ネイティブ・インディアンの人々が、ホワイト・セージを焚く、そのゆらめき登る煙を思い浮かべた。昨晩、彼らについての本を読んでいたせいもあるだろう。なるほど、上に登っていく浄化もあるということか。しかし、それは、なんだか「届ける」という気持ちが込められいる。四万十川に立ち込めた朝霧がのぼっていく様子にも、そう意識を設定した朝には、なんだかそう感じることができる。目の前の景色に想いを馳せられるのなら、その様子に想いを乗せて、運んでもらうことも可能なのではないか。それなら、川に想いを浮かべ、海まで運んでもらってもよいかも知れない(ああ、サーフィンに行きたい。← あ、そこですね!こんな日は海はたいそうに気持ち良いだろうに)。

今日はこれからお出かけの日なので、時間がない忙しい朝なのだが、30分でも毎日やろうと決めた文章を書こうとパソコンを開いた。しかし、この30分の間に、随分と気持ちは方々に繋がり、朝のストレッチをした気分である。今日はこれから野山に出かける。気持ちの後の、野外での生身のストレッチが楽しみである。

と、あてもなく書き出した文章ですが、こんなのが出てきましたね。自分で「今日は、何が出てくるかなー」という気持ちで書くの面白いですね。あ、30分のタイマーがなった!準備してしゅっぱちうしなければ・・・・・・・・・

 

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