朝のルーティーン。鉄瓶に水を汲み、おくどさんに火を入れる。お湯が沸くその間に、昨晩のお皿の片付けやらお勝手周りの片付けをする。ミルに珈琲豆を入れ、おくどさんの前に腰掛け、くるくるとハンドルを回す。鉄瓶の注ぎ口から湯煙あがり、鉄瓶持ち上げ、細く挽かれた珈琲の粉が円に配置されたその場所を真上から見下ろす。ぽたりと、円の中心へと湯を落とす。ぽたり、ぽたりと、湯を落としていく。湯煙立ち昇る。お勝手の擦りガラスより差し込んだ朝の淡い光の中、立昇るその湯気の神妙さに茫然とする。

 タンブラーに注いだ珈琲を手に持って机と向かい、パソコン開き「よし、整った、今日も書くぞ!」と、そこまでは調子良かったのだが、その後からは手が止まってしまった。「うーん、どうしたものか」と、ここから珈琲がはいった時点からの現場検証。

パソコンを開いた時点で、「今日はこれを書きたい」との題材が、な・ん・と・な・く・決まっていた。それは、ここ最近読んでいる本に感銘するところがたくさんあって、「今日の記事には、本で感銘したところと自分の暮らしを照らし合わせたことを書きたい」との方向性だった。それをどう書いたものかと思いながら、ここ数日読んでいた本のページを開き、何度もページを行ったり来たりしていたら、そのままに時間がすぎてしまった。手は動かずのままにいっとき時間が経ったところで、「まあ、いいや、しょうがない」と本より顔を上げる。「内容はおまけの、書く行為自体が目的」とのマントラ唱え出す。それでは書き出しにと、今の状態を書き出すことから始めてみた、今である。

 そんな朝の執筆にあてた時間において、不毛な時間を過ごしたような今朝の読書の見直しの時間ではあったのだが、本からの内容ではなく、読み直しという、もう一つ外の枠として俯瞰してみると、そこには気づきがあった。今朝の読書は、一読目の読書とは意識が異なり「ここで読んで受け取ったものを、自分の体験からの言葉に変換して、それを誰か伝えたい」と言いう思いのものであった。ただ受け取って読んでいるだけの一読目の行為とは、随分と文字に目を滑らせ注意度が違うものだな、と感じることができたのである。というのも、より深く著者の気持ちや背景を汲み取れたような気がしたからです。この著者だって、今朝のぼくと同じようにわざわざ文字にしたいとの思いがあったのだ。それは、どんな思いだったのだろう。どんなことをシェアしたかったのだろうか。そして、ぼくはこの本から得た、どんな感動を伝えたいのだろうか。自分の経験や日々の暮らしとどのように連動したからこその、感動だったのだろうか。

 ここまで書いてきた時点で、思考とキーボードを打つ指を連動させるためのエンジンがようやくほぐれ出してきた感じがする。なので、まあ、書きたいと思っていたことを、ここで少しは書いてみようではないか。昨晩からなんとくイメージしていた読書感想文の文章構成の道筋は見失ってしまった感はあるけれど。その予感は、今朝にはもう存在していなかったということでよいのかもしれない。それに、「書きたいな」と思った気持ちを、とりあえずでも書いて存在させておきたいのかもしれない。せっかくの衝動を、書かずにそのまま腐らして消えていってしまうことに、残念な気持ち。今後の思考の土壌にも、影響がありあそうな。とりあえずでも、種を蒔いておこう。

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ピーカンの忠告

『一本の木が豊作なら、他の木も全部豊作なのだ−ソリストはいないのである。木立のうちの一本だけではなく木立全体、森の中のどれか一つの木立だけではなく全ての木立、この国全体、すべての州でそれが起こるのだ。木は一本一本バラバラにではなく、なぜか集団として行動する。それがどうやって起こるのか、正確なことまでわかっていない。わかっているのは、結束の力だ。一人に起こることは全員に起こる。私たちはともに飢えることも、ともに飽食を楽しむこともできる。景気の良い時みな一緒だ。』

『ピーカンの木立は与えて、与え続ける。こんな気前の良さは、個体の生き残りを不可欠とする進化の過程とは相入れないように思えるかもしれない。だが、個体の健全さを全体の健全さと切り離そうとしれば、私たちは大きな過ちを犯すことになる。』

ー Book『植物と叡智の守り人・ネイティブアメリカンの植物学者が語る化学・癒し・伝承』 より ー

 ピーカンナッツをはじめ、バターナッツ、クログルミ、ヒッコリーはどれも、同じクルミ科の近縁種である。クルミには豊凶現象の謎がある。木が実をつけるのは毎年というわけではなく、いつ実をつけるのかは予想がつかない。豊作の年もあるけれど不作の年がほとんどで、何年かおきに豊作となるこの現象は「マスティング」と呼ばれている、と本に記されいた。本には、この不思議さから、どうやら木々は会話しているらしいとの見解も。そのことを、植物学者である筆者の化学的見地と、ネイティブアメリカンの伝統からの見地によって書かれている。

 この木々の不思議さを知ったときになんだか、安堵の気持ちが湧いてきた。目の前の植物たちは共に連動しており、その全体性の中には、ピーカンの実を頬張るリスや、ポケットに入れて家に持ち帰る人間の少年たちも含まれた物語であると、この世界を感じれたからであろう。

 物語をどのように編んでいくいのか、どんな世界観の物語を信じたいのか、そこには他者かの侵入を許さぬ個人の自由が存在しているはずだ。もしかしたら、個人の意思を飛び越えて「わあ!」と魂が揺さぶられた時点で、その物語を受けているのかもしれない。こころの反応は、思考構築よりもはやい。

 さて、さて、本の一読から知った物語によって、目の前に見えている景色が随分と変わったものである。いつもの畑の植物たち、裏山の木々たちに話かけたくなっている。「それぞれに、一緒に、やっていきましょうね」と。そんな言葉は、本の中にあった言葉『与え与えられたりの相互依存、レシプロシティー』の記述からの反応からもきているのかもしれない。

物語。自分がこころ惹かれる物語の登場者たち、木々や草花に囲まれたここが、棲み家であることを嬉しく思う。

と、ここまで書きましたが、

・人の言葉を引用して書くのは慣れず、ぎこちなかったな、

・そんなこともあってか、なかなかに、まとまりきらず、

・なので、もっと時間をかけて納得いくまで書きたい、

・けど、お日様も随分に照ってきてて外仕事も気になりつつ、

という気持ちも存在しているということも、記しておこうかな。

・よし、今日も書いたぞ、嬉しい!

今日はここで、おしまい。

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