昨晩見た天気予報のマークとは裏腹に、雨は降っていなくて、これだったら朝一番からサーフィンに行ったのにと思いながらも、いますぐパッと出るほどの心算はなく、家から海までサーフボード担いで波打ち際に立つ二時間の道のりと、その日一日、日課から離れるのもやはり朝一番の思いつきではできなく、休みの日はもう寝る前から『明日は休み、海へ行く!』と朝一番から存分に楽しみたく、それでも、先週気持ちよく波に乗ったものだから、この一週間どうにか海に行けないかとそわそわしている自分がいたのだが、やはり空は曇ってきて、天気予報が『エヘン』と言っているようで、そのことでぼくのこころも納得して、落ち着いて、「まあ、いいか」と、いつものようにコーヒーを淹れて、机に着いた。

 日記のタイトルに『0515』と書き込み、昨日は『0514』だったことを思い、やはりこの数字の並びは好きで、昨日も迷っていたのだが、やはりこの数字のことを書きたい。これは、仙台の祖母の誕生日で、もう何歳なのだろう? 98歳か、99歳か。誕生日はどんな一日を過ごしていただろうかと、祖母の部屋に射しこむ光を思う、一日だった。五月の爽やかな陽光と風が気持ちのよい季節で、この時期の東北の光は素晴らしいだろうと思い、この清々しさは、いつも祖母の誕生日を思い出させてくれる。祖母の誕生日のこの季節が、そのままに祖母の人柄のようにも思えてしまう(と言うのが通年のはずなのだが、今年の梅雨入りは随分に早くにくるようで、雲が空に浮かぶ、四万十の2021年5月14日だった)。清々しく、いつも淡い光に包まれ佇んでいるような祖母の姿。祖母の白髪は見事だ。逆光の光にふわふわと浮かぶ綿毛のように思えた、あの光を思い出す。なんだか、その部屋で祖母と過ごす数時間は特別な時間であり、日常とは別次元の空間のようである。介護施設という無機質な装いも、その意味を持たせているのかもしれない。100歳近い、祖母の時間の流れは、明らかにぼくのものとは違い、その部屋に祖母に会いに行くとは、祖母の時間空間に身を寄せていくような感覚だ。祖母の100年の流れは、それは、随分とゆっくりとしていて、静かに、穏やかに流れている。静けさの中に、全ての粒子の中に、その存在がある。一点集中の華やかさではない、おおらかさの質量がある。一年に数時間だけの祖母との時間なのだが、短くも、とても深い。時間とは長さではなく、深さもあるようだ。

 余談になるが、毎日絵を書いていると、あっという間に、すばしい絵をかける時がある。時折、『いつも絵はどのぐらいの時間をかけて描くのですか』と聞かれることがあるのだが、そこに絵の値段をつけようと思っている意識があるときに特になのだが、それぞれの絵に描けた時間をそのままに言うことをためらう自分がいる。それは、かけた時間が短いその絵にも同じ価値をつけるのが申し訳ないような。かけた時間の長さ=価値、といった考えがあるからだろう。しかし、絵を見ていると、かけた時間が短くても、圧倒的に素晴らしい絵があって、そのことを思っていると、時間とは、長さだけではなく、深さもあるのかもしれないと思えてきた。短い時間だが、深みのある質量が生まれることがある。深みは、その人の人生が作り出すものか。祖母との数時間は、とても深みがあり、心の奥底にいつもたたずみ、キラキラと光が差し込む。いつまでも、鮮明に記憶されているのだ。

 数日前、同じ集落の105歳のおばあさまが旅立たれた。ぼくが畑仕事をしていると、散歩途中のおばあさんが『何を植えているかえ?』と話しかけてくれて、立ち話をよくしたものだ。100歳を過ぎても足腰達者で、耳もよく聞こえていた。おばあさんとのいくつかの言葉の交換に、忙しない気持ちがゆっくりとなり、心がほぐれていたこと思い出す。遠くにおばあさんの姿を見ただけでも、道端のお地蔵様にふと立ち止まるように、「はあ」と一息ついたものである。わずかばかりの交流であったが、その存在が、ぼくにとって大きな拠り所となっていた。

 わずかばかりでも、大きく、深い。

 

*

この世の状況で、祖母に会いに行きたくとも、行けていない。
会いたいな・・・と、その気持ちだけは、ここに存在させたい。
「おばあちゃん、誕生日おめでとう!何歳になったの?』と、言いたいな。


 集落のおばあさんが旅立たれてしまって、寂しい。
と、その気持ちだけは、ここに存在させたい。
『お世話になりました』、とここで伝えさせて。

2021年5月15日・朝、
風も吹いてきて、
外は変わる空模様である。