梅雨入り。



 そう聞くと、「あー、しばらくの雨か」と思うのだが、梅雨にも強弱があって、一辺倒に降っているわけではないようだ。ある朝は、たいそうに雨足が強く響いていた。朝の暗がりに、雨音がよく響く。鳥もまだ鳴いていない。耳を澄ませていると、方々で音が鳴っている。場所場所に、音はたいそうに違う。遠くでは、川の流れる音。川の音は、いつもの様子よりも(と言っても、常に変化しているのだが)、ゴーゴーと強く響いていて、ここ数日の降水量の多さを表している。川と空の間には、山肌が壁となった空間があって(それを『谷』と呼ぶのだろう)、雨粒の点線が、空から垂れている。『垂れている』というぐらいへ、雨降り模様が変わっていた。鳥が鳴き出した。谷の虚空には、音は充填されていないようだが、それは、ぶつかる物がないから音も生まれてこないのだろうか。けど、やはり、何かしらの音の存在も感じる。あえていうならば、濃密な大気の幕に、音の存在しにくさの気配を感じる。手前には、けたたましく雨樋から落ちる水の音。屋根中からの水が一点に集められ、激流が生まれている。家の裏、山の方からもまた違ったトーンで雨音が、裏戸より流れ込んできている。


これは、まるで、雨の重奏曲である。

なんて言って、雨降りを楽しんでいられるのも、限られた日数なものであった。



 雨降りの日々に比例して、家の空気の密度(これを『湿気』というのだろうか)も、その濃度を日に日に高めていく。こうも降り止まぬ毎日に、ある時点でピークポイントを越して水がどっと溢れ出すように、その不快指数が一気に土間に流れ込んできた(実際に、地面から滲み出てきた水で、足元に水溜りができている)。どうにも、まとわりつく大気に、動きが鈍くなっていく。気づけば、板の間や、机の上には、粉化粧が振られている。『梅雨の雪』と呼べば、気分が幾分晴れるだろうか。しかし、立ち込める臭いと出会った時には、そんな冗談も言っていられない。冗談を言う口が開く前に、鼻が曲がり、口を開くどころではない。


 四万十に来てからというもの、『梅雨時が、一年で一番辛い」と言う声を聞く。そして、自身の内からも、そのような声が出てきている(はたまた、それは逆で、自身の声が出てきた結果、そのような他者の声に、より同調して、より聞こえてくるようになったのか)。そのような湿気への辛さ、雨降りの辛さは、街暮らしでは思ったことがなかった。それまでは、冬の寒さが一番の耐え難い季節であった。しかし、今となっては、冬が来ると、その寒さ故の美しさを心待ちにしている自分がいる。寒さに耐えることを、愛おしくも感じるようになってきた。確かに、「冬が好き」と言う人たちの声を、ちらほらと聞くものだ。そこに便乗して、今では、ぼくも、「冬はしんどい。でも、好き」と公言したい。しかし「梅雨が好き」と言った人の顔は、パッとは思い浮かばない(どこかには、そう言う人もいるだろう。けど、四万十の梅雨煙の日々に、そのように言った人はいない)。

 日本家屋の利便性について、「湿気に備えてデザインされている」と聞く。つまりは、冬の寒さ対策よりも、風通しの良さを重要視している。この民家に住んでみて、その通りであると痛感する。風が透け透けである。寒い。家のデザインは、昔の人々も、寒さよりも湿気を忌み嫌ったであろうとの、証言である。寒さにうちひしがれようとも、湿気で床下腐ってしまえば、家は朽ち崩れよう。そんな理由もあったのかもしれない(それでも、やはり、湿気がすごいのだが)。しかし、家のことよりも何よりも先に、気持ちが崩れてしまうのだ。気持ちだけは、ジメジメしたくないものである。「冷たい人ね」と言われようとも、「ジメジメした人ね」とは言われたくない。こんなことも、住環境と通ずるものがあるだろうか。


 昨晩の天気予報では、珍しくお天気マークがついていたものだから、今朝は朝一番から洗濯物をして、掃除をして回った。掃除もいつもより念入りにしようと、床に置いてあるものを動かし、隅に溜まっている埃を綺麗に掃き出した。拭き掃除もした。ものを動かしたついでに、ちょっとした部屋の模様替えもした。布団も干そうと思っていたのだが、半分予想していた通りの裏切りの曇り空であり、ここからの形勢逆転の晴れを信用するには不十分な空の表情で、布団は畳んで脇に寄せたままにした。洗濯機が三回廻って、物干し竿にずらりと洗濯物が並んだ時点でも、空は曇ったまま。む、む、む、、、。けど、まあ、晴れると信じて、そのように行動し、そのおかげで、洗濯、掃除、模様替えも済んで、幾分、晴れやなか気持ちの土曜の朝だ。滞っていた気持ちの風通しも、随分と良くなった。けど、洗濯物が生乾きになってしまわないか、それが唯一気になるところなのだが。

あ〜、梅雨〜。