庭や畑には、

見事に花が咲いた。

 移住して9年も経って、野菜もだいぶ育てられるようになってきて、畑一面ありったけにせっせと野菜を植え付けても、独り身には食べきれないことも、ここ数年わかってきて、それならと去年の春も、秋も、花の種をようきに蒔いたのだった。花も、団子にも勝らぬ栄養であるからに。この数年、花はこころの栄養と実感することが増えてきたものだ。

 庭のかどかどにも、道の駅で気に入った山野草の苗を見つけては買ってきては植えていた。そして、木々も。こんな花が枝についたら綺麗だろうよ、と数年先を思い描きながら、庭に裏山に木々を植えている。木が庭に入ることで、空間に高さが生まれる。意識の先が、より広がる。顔を上げ、庭木の枝先に目をやると、蕾を含ませ始めたところである。

 春が動き始めたことの知らせに下草が動き始め、そこに気を取られ、下を向いて歩けば、すみれの花を見つけ、オオイヌノフグリが瞬いた。ここ最近の視線は、下を向かず、前を向いてきたような。夏の空に向かって、視線の先も上がってきた。

 花が欲しくて、野菜の植え付けを減らしたと言ったけれど、野菜たちもやっぱり花を付けてくれていて、野菜の花たちは注目を集めなくても、畑を慎ましく賑わしてくれている。

 そういえば、今日の午後には、客人に、「好きなお花があったら、持って行ってね」と言ったものだった。畑をやり出した頃は、「好きな野菜持って行っていいよ」というのが憧れだったものだが、お花についても同じことをしたのだな、と気づいた。自分が育てた野菜をお裾分けするのと同じように、お花をお裾分けするのは、何とも豊かな気持ちだった。

 その子は「こんなに、活けたよ」と、家に帰って棚に飾った花の写真を送ってくれた。春菊の黄色く白い縁取りの花が、可愛らしく透明の瓶にささっていた。ぼくにとっては、春菊の花が飾られているのが、なんだか新鮮に思えて、そういえば、あの子は数ある花々の中から、他にも豪華な花や、見事な花があったのに、なんだか当たり前の春菊の花が一番好きと言って、その当たり前を上手に素敵に活けて、そのことがなんだかとてもあの子らしいな、と思ったのだった。