ぼくの旅路:その3

【 はじめての海外一人旅・学びの日々 in LONDON 】

当時のわたし:20歳/大学生 in TOKYO

 

そんな、四方塞がりな、憂鬱な大学生活に、ビューっと吹き抜ける風穴をあけてくれたのが、あのLONDONでの二ヶ月でした。

 

「わたしは、カナダに留学してくる」。冬の長い西日に照らされ、高校の同級生から放たれた、あの言葉。その言葉は、ぼくのこころのなかで、ずっと鳴り響いていた。その響きの後には、「さあ、どうする、どうする!?」という自身に問いかける残響音がこだましていた。

 

それから数日後、ぼくは父に告げた。「海外へ、英語を勉強しに行きたい、春休みの2ヶ月をつかって」。父はこころよく賛成してくれた。「英語を話せるようになるのは、これから必要なことだ。時間のあるうちに、存分にやってこい」と。そして、金銭面でのサポートを二つ返事で承諾してくれた。ぼくのこころに、光りが射して来た、未知へのほどよい緊張感とともに。

 

なぜ、LONDONだったかというと、二十歳のぼくが大好きだったものはサッカー、ファッション、(建築を含めた)デザイン、音楽(特にテクノ)だったからだ。英語が勉強できて、さらにそれらがすべて満たされているのが、まさにLONDONだったのだ。(この理由を当時、親が知っていたら「本当に英語を勉強しにいくのかな?」と心配をしたかもしれない。いや、そんなことはすべてお見通しでいながらも、「いまできることを、やってきなさい」と、行かせてくれたのであろう)。

 

はじめて訪れた、LONDONの地、冬の時。どんよりとした空だった、それが第一印象だった。しかし、そんな空の下には、まばゆいばかりに光り輝く日々が待っていた。見るもの、聞くこと、手に触れるもの、すべてが新しい日々は、瞬間、瞬間に細胞が沸き立つことの連続だった。日常のちょっとした会話でも、英語を使って用が足せたことに、喜びと、満足感を覚えた。そんな瞬間、瞬間の連続だった。そう、日本の日々では、常に満たされない思いがあったのに、こんなちょっとしたことで満たされる自分が、あの異国の地に居たのである。

 

語学学校初日、クラス分けテスト。結果は、一番下のクラス。「一応、日本で中・高・大学と何年間も英語の勉強をしてきたのに、これか・・・」と、自身にがっかりした気持ち。しかし、まったく英語が聞き取れないのは、認めるところ、しょうがない・・・。

 

同じ教室には、さまざまな国籍、異なる肌の色、多種多様な衣服、におい(ぼくは、外国に行くと、まさに、「におい」に異文化の香りを感じます)の人びとが、老若男女問わず同じクラスメートとして机を並べていました(「机」と書きましたが、実際は、日本の学校のようなちゃんとした机はなく、飛行機の座席のような簡単な収納テーブルがついた椅子が、教室に並べてあるだけでした。しかも、並べ方は、これまた日本のように縦横そろって並べてあるのではなく、まるく円になって並べてありました。こんな違いを目にするたびに、ワクワクしていたのですよね)。授業はもちろん、すべて英語で話される。もちろんのこと、はじめのころは、とても緊張した。そう、緊張です! まさに、よい緊張感が常にあったのです。ああ、自堕落な日本の大学生活の日々との何たる違いよ。新たな環境に順応していくための、この緊張感から来る外的ストレスによって、ぼくの内に眠っていた細胞たちがふつふつと沸き立ち、目覚めていったのです。目にすること、耳にすること、てざわり、におい、味。瞬間、瞬間に、細胞が振動し、その情報を受け取り、学んでいったのです。「自堕落な」と書きましたが、それは細胞が閉じてしまっていて、振動すること、そう、こころが震えること、つまりは、感動ができないくらいに凝り固まった状態にあったのではないでしょうか。その「凝り」とは、どこから来ていたのでしょうか。馴れすぎた環境か、社会の固定観念に捕われた価値観や、思考パターンからなのか・・・。

 

LONDONでの日々、英語はまさに、自分の世界を広げていってくれる新しいツールのようでありました。日に日に英語が上達していくにつれて、クラスメートたちと、だんだんと話せるようになってくると、彼ら一人一人が内包している世界に触れることが出来たのです。それは、彼らの生まれ育った異国の土地の物語であったり、さまざまな職業の経験だったり、または、異なる年代の人びとの価値観に触れることだったりと。その言葉たちの中には、今までのぼくが知らなかったストーリーに満ち溢れていたのです。ああ、世界が再び色彩を持って彩られていく気分でした。それは、日本のモノトーンに配色された日々とは実に対照的だったのです。ぼくが日本の大学生という社会的身分で、毎日出会う人びとは、大多数はぼくと同じ社会的目線や同じようなバックグラウンドを持つ同級生の仲間達。同じような思考パターンの仲間たちとの会話。または、同じ枠組みの中にいる大人たち。それが、ぼくの単調なモノトーンに塗りつぶされた日本の日々だったのです。その単調さに埋没してしまっていた自分、そこから抜け出したいと、ただ、ただ、もがいていた自分。そんな自分が、LONDONでの日々で新しい価値観と出会うたびに、知らず知らずに築きあげてきてしまった枠組みの骨組みを、一本、また一本と外されていくような気分でした。それは、整体でパキパキっと骨格を矯正していってもらっているような、快感さえありました。

 

ぼくは、この世界がどんどんと開いていく感覚がたまらず、そして、もっと、もっと、このあたらしい世界を知りたい、あじわいたいと、LONDONでの2ヶ月の間に、熱心に、熱心に、おおきな喜びと、充実感をもって、英語を勉強しました。この「充実感」というのも、日本の日々で大きくかけていたものでした。大学の勉強を含め、なんだか毎日が空気を掴むことかのように、何かを掴んだという実感をもてない毎日だったのです。LONDONでの英語を学ぶ日々は、もし今日なにかちゃんと英語で伝えきれなかったことがあったとしても、その日の晩、家に帰って辞書を開き、調べ、次の日にそれは試してみるのです。そして、それが通じたときには、確かな手応えと充実感がコツリと、まるで手の内に握れるかのごとく残るのでした。そう、手のひらに握れるほどの小さな手応えでよいのです、その確かな手応えを、一つ、また一つと積み上げていくことにも、充実感を感じていたのですから。

 

英語の勉強は具体的にどうやっていたかというと、学校の勉強をしっかりやることはもちろんですが(といっても、日本の学校の「義務感」という感覚とはちがって、毎日、毎日、ワクワクと遊びにいっているような気分でした)、前述したように、日常でわからなかった単語や、伝えたくても伝えられなかったセンテンスがあったら、それを日本語でいつもポケットに携帯しているノートにメモしておいて(そう、なんでもポケットノートにメモしておいて)、家に帰ったら辞書を開いて調べてノートに記しました。日記も英語で書きました。そしたら、あれよ、あれよと、学校でのクラスは階段を駆け上がるかのように上がっていきました。先生もずいぶんとびっくりとしていました。しまいには、夢も英語で見るようになりました。正直なところ、やっぱり日本の学校で何年間も英語を勉強してきただけあって、文法などの基本事項はおおむね、すでに知っていた訳です。ただ、日本では英語を聞いて話す機会がなかったので、耳が英語に馴れていなかったのです。日本の土壌では、英語を使って話すという度胸もなかなか培われませんし。いったん、英語に耳が馴れ出すと、絡まっていた紐があるところからスルスルとほどけ出すように、いっぺんに英語で話されていることが理解できていくような気分でした。そこに、細胞から沸き立つような「知りたい、伝えたい」という情熱が加わって、その学びのスピードがさらに助長されたのでしょう。なるほど、自発的に学ぶということは、こういうことかと、学ぶということは、いかに楽しいことかと、身を持って知ることが出来ました。いままで、日本で、いかに受け身で、消極的な学びをしていたことだろうか。

 

さて、「英語を勉強してくる」という大名目の下に忍ばせてきた、本場LONDONでのファッション、デザイン、音楽(クラブで踊りまくること!)、そしてサッカーの分野でも、これでもかと謳歌しました!

 

 

LONDONの華色の日々、続きます。

 

 

次回へ、つづく。

 

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susana 342

 

しばし、秋の深みに、瞑想してきます。

よって、連載、数週のあいだ休憩します。

写真は、20代後半、中米グアテマラでの瞑想の日々。