* 睡蓮 *

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朝四時起床

瞑想1時間

YOGA1時間半

そこから、いつもだったら、コーヒーを淹れて机に向かうところだが、昨日の朝一番の畑仕事がすこぶる良かったので、今日もその日課でいってみる。6時半から、鎌を手に持って、昨日やりきれなかった草刈りのつづきを開始。つづきの仕事を残しておくのはよいことかもしれない。何も考えずに、昨日の流れの中に、入っていける。手刈りの良いところは、しゃがみこんで、いつもより地面に近い、目線で植物たちを観察できるところだ。昨日草を刈っておいた畝に植えてあるトゥルシーの伸び伸びしていること。毎日、同じ時間に同じ行為をすることで、行為の結果の良し悪しを観察することができる。草刈りは、9時までとスケージュールしておいたのだが、やりたかったところを一通り終わって、時計を見ると8時半だった。あと、30分作業の時間があるので、ずっとやらなきゃと思っていた、梅雨の大雨時の谷水の洪水で崩れてしまった石垣の補修をやることに。「これでよし」とやりきったところで、ちょうど9時だった。「ずっと、やらなきゃ、やらなきゃ」と思っていたことが、やってみれば30分で出来てしまったことに驚く。最近は、「やらなきゃ、やらなきゃ」と思いながらやらずにいると、意志のエネルギーが削り取られていくのを感じるので、【予定する→やる】の作戦を取ることにしている(まだその通りにできないことも、多々なので、正確には、「しようと、努力している」)。いつもやることを後伸ばしにする癖を、よく母に、「琢哉は、やりだすとはやいけど、やりだすまでが、遅いのよねー」と、小言を言われていたのを思い出す。

よし、朝の仕事は、今日もバッチリ!、と仕事を終え、畑から階段を登って、鎌を入れた腰袋と手袋を外しながら玄関先に戻ってくると、睡蓮の白い花が咲いていた。

ぼくのこころにも『パッー』と、まあるいひかりが灯った。

花はこころの栄養である。

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(ぼくが、思い描いていた睡蓮のお花よりも、ずいぶんと小さかったので、「あれっ!?」とも思った、けど)

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ゴーグルとフィンを持って、川へ水浴びへ。

フィンをつけて泳ぐのにだいぶ慣れてきた。水中でのこの動作は、いままでに使ったことのないインナーマッスルを使っているようで、体の内側からの締まり方が、変化してきている。水面を進むのではなく、潜って泳ぐことも、だんだんできるようになってきた。潜って泳ぐと、水面下にいつもと違う道を見つけ、川底の新しい世界を覗き込んだ。

水着を干して、コーヒーを淹れ、机の前にたち、Blogの執筆、朝10時半

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昨日、つまりは金曜日の午後は、月に何度かの楽しみなYOGAのクラスがある。楽しみの理由は先生による指導の元、普段の自分自身での練習では、たどり着けない深い状態に導いて貰えることと、その結果におこる心身の癒し。このYOGAのクラスの後は、次の一週間本当に調子良い。もう一つの楽しみに理由は、クラスの前後で、近所の親しい友人たちと一同に顔を合わせてお喋りができること。ぼくは、普段は全くに、日々の営みに没頭し、人に会わないのだが、たまにの、このお喋りがよい息抜きになっているのだと思う。それが、夜ではなくて、お日様が出ている、日中というのも、ぼくにとってはよい。人とのコミュケーションでも、朝、昼、夜と時間帯によって、エネルギーが違う。

昨日のYOGAのクラス後は、新しい試みをみんなでやってみた。先週、ノンバイオレント・コミュニケーション(NVC)の共感ワークショップが、こんな山奥の我が家の近所で開かれた。もう、ここ何年もNVCを学びたいと、思い続けてきたのだが、タイミングが合わず、ワークショップを実際に受ける機会には恵まれなかった。NVCを初めて知った時の、もうこれは驚愕と言っていいぐらいの、衝撃は忘れられない。いままで自分が無意識にとってきたコミュニケーションに対する、失望・後悔の念である。一番はじめに母の顔が浮かんだ。そして、次々と、近しい人たちの顔が。最後には、自分が日々、呟いている、聞いている、自分自身との会話にも、無念さが溢れた。はっきりい言って、ぼくはこれまでの、この従来のコミュニケーション方法しか知らなかったのである。ぼくの環境を形成してきた、周りの人々も同じくだ。知らないことを実践することはできない。ぼくは、この、もう一つのコミュニケーション方法を知りたいと、ワークショップに参加できない代わりに、本を何度も読んだり、Youtubeやオーディオテープを聞きながら自分で勉強していた。これは、昨日のレストランに行った男のたとえ話の、1)2)3)の知識のレベルの、【2:頭で分析し、理解した知恵】のレベルを培ってはいたけれど、仏陀が言う所の「真の知識」である【3:自分が直接体験して得た知恵】は持っていなかった。なので、ワークショップが受けられることを、こころから喜んだ。

昨日のYOGAに来ていたメンバーは、みんな、先週のワークショップを受けていたので、クラスの後の時間を利用して、自分たちでおさらいをしてみよう、ということになった。初めて、NVCのことを知る人も多かったので、ぼくが知っている知識をお話しして、共有した。ここで、ぼくが抱いていたもう一つの願望が叶ったことに気づく。ここ数日の記事に、「人に教える・伝えることは、個人の理解を倍増・定着化させる」と幾度が書いたが、YOGAの仲間の輪の中で、ぼくが知っていることを、生身の人間に伝えられる機会が与えられた。さらなる願望の成就は、学びの仲間ができたということ。若木は、一本では雨風に倒れてしまいかねない。しかし、数本集まれば、支え合い、いずれ、森となる。2つの願望が、ここで叶ったのだ。いろいろなことが、育まれてきているのを、実感する。

永年の夢だった、白い睡蓮が、ついに、花開いた朝であった。

さらには、蕾が、もう一つ、二つ、水面に顔を浮かべている。

ぼくは、この花開いた事実に、いたく感動している

しかし、花開くまで、水の下、土の中で、様々な営みが行われていたのだろう。

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「毎日書こう!」と決めて、Blog記事を毎日投稿していると、内容は必然と日記となってきた。

いままでの自分の美徳として、日常のプライオベートは、慎ましくしておきたいと思ってきた。しかし、この日記という形態によって、その志向が、干渉されてきてしまっている感があり、少し落ち着かない。上記のNVCのお話しなど、自分にとって一歩潜り込んだ繊細な部分として捉えていたので、いままでだったら、記述などしなかっただろう。けど、そこの一歩潜り込んだ部分に、長年の結果によるコリが存在しているのを感じていて、その硬さを解体していきたいと、思っている。その方法を探っているところだ。いまは、記事の内容よりも、こころに浮かんできた事象を、毎日綴るという【行為】にフォーカスする。何事もやってみよう!

このBlogもどちらへ進みたいのか、自分でもよくわからなくなってきた

しかし、いつか、毎日の営みは、花を咲かすことでしょう