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タイトルの日付を書くのにカレンダーに目を滑らせていると、もう7月最終週の列を目が追っていた。毎日一生懸命充実して生きているものの、月日が流れるのは、なんとも早いものだ。子供の頃の一ヶ月、二ヶ月は、途方もない時間に思えた。そのことを思うと、それは気持ちだけの問題であろうかと、哲学的、心理的思考が始まる。
日々充実した思いの今の暮らしに感謝でいっぱいなのだが、どうだろう、子供の頃の充実度と比べたら。この歳となってみては『充実』との言葉の先には、未来を予測しての思考が入っていることが多々ある。畑に種を撒くときも、数ヶ月後の収穫の喜びを楽しみにしてこその、充実した思いなのかもしれない。しかし、子供の頃、それは目の前のことに一心不乱に向き合っての充実度であったと思う。目の前に虫が歩いていたら、その虫の姿格好だけに興味がある。この虫が歩いて、飛んでいった先で、畑の作物を食い荒らさないだろうかとは、その先のことは思わなかった。それは、知識や経験がないため未来予測をする習慣がないこと、さらには諸々に対する責任がないからこその心配の不必要性なのかもしれない。しかし、違った尺度から見れば、子供たちのその瞬間の意識の解像度は、とても深く、細かいものなのだろうと思う。『その瞬間の解像度の高さ=充実度』とも言えるのかも。
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昨日の日記には、「絵を描くことは、日々の健康法だ」と書いた後で、文章を書くことも素晴らしい日々の健康法だなと思っていた。昨日の日記を書き始める時点では、全く持って何を書こうやらとの思いでどうしたものかと困っていたのだが、それでもパソコンの前に座っていたのは「書きたいことがあるから、書く」のが目的ではなくて、「書くことが目的だから、書きたいことを見つける」という、『書く行為』をとにも実現したかった。いつもの朝のルーティンの繰り返しに、執筆の決まったタイミングに来ると、「書きたい!」との衝動がやってくる。昨日の朝も、微細だがそれがやってきていた。しかし、出張などなどで一ヶ月以上もその行為をしていなかったので、衝動から行為、そして具現化する筋肉が落ちているのも感じていた。しかし、確かに、衝動はやってきていた。その衝動を行為に移すまで、少しの手こずりを感じる。これがブランクというものか。しかし、やってみる。衝動を形にして、スッキリしたいとの思い。そして、やってみると、なんだか筋肉がほぐれてきて、とりあえずでも書けた。そして、書けたことに満足がある。うん、やってよかった。その結果として、頭がより明朗活発に動き出している。これだ! 朝の「書きたい!」との衝動は、この朝一番に書くことによって頭がよく動き出すことだ。いわば、頭の柔軟体操だ。朝一番に頭がほぐれたら、その日一日の思考の状態にも違いが出てくる。より柔軟に、物事を見ている、聞いている。そう、解像度が上がっている。つまりは、充実する。
『解像度』との言葉も、昨日の日記を書いた後で頭の中に出てきていた。それは、「毎日日記を書くとは、毎日それなりにイベントがないと、なかなか書けないよな」と思ったことから始まる。「そのためにも、今日一日をより充実して生きよう!」、なんて思ったりもしたのだが、その考えはどうにも安易すぎて、好意をもてなかった。というのも、日々同じことの繰り返しをしているのがこの暮らしであるだけに、「無理にイベントを作るとは?」などと思ってしまったからだ。しかしどうだろう、『充実』という言葉を、イベントの『数』や『インパクト』ではなくて、『解像度』としたら。そう、日々単調な繰り返しなのも事実なのだから、解像度をあげていって、その都度に到達した深みを素材として、日々描写していくことは可能なのかもしれない。子供もの『充実度』の極意は、ここにある気がする。そんなことを思っていたもので、昨日の時点でもうすでに、今日の書きたい題材はもう見つけていた。昨日どうにか頭をひねって絞り出して言葉を書いたおかげで、「何を書こうか?」とポカンとしていた昨日の思考状態よりも、一日経って、解像度が上がっているではないか。これも、日々繰り返しやるからこそだ。
(ここで、自分の中で一つ、「どういうことだろう?」との自分自身へに問いかけが出ている。それは、「解像度」と「深さ」の二種類の言葉で同じことを描写しているようであって、それでも何か微妙に違うニュアンスを捉えようとしているところがあるのではないか、という感覚だ。今日の日記では、そちらの深度へ潜っていくのをやめて、昨日から書きたいと思っていたことへ潜っていきましょう。)
『日々』との言葉が出てきた。前述の部分でも無意識にも、『日々の健康法』と『日々』との言葉を付けたのだが、やはりこれには意味がある。日々、行為を繰り返すことで、対処的な健康法は、健康習慣法に変わってくる。習慣とは、その人の人格になる。つまりは、それが常との状態になる。それどころか、常ではなくて、成長していく土壌となる。習慣との言葉はなんだか、『同じ行為を繰り返す=同じ状態を保つ』と思ってしまっている節があるが、どうにも違うようで、『同じ行為を繰り返す=コツコツ積み上げていく=成長していく』ということのなのだと、日々の繰り返しの暮らしから常々思う。成長とは、嬉しい。どうして嬉しいのか?それは、わからないけど、とにかく嬉しい! そのように手放しで言ってしまっても良いような、自然の摂理のことのように思う。子供の成長を見たら、嬉しい。植物の成長を見たら、嬉しい。それと同じくに、自分の成長を実感しても、嬉しい。さらに興味深いのが、そこに『自分』の行為の結果の成長だと尚更、嬉しい。自分の子供成長。自分で種を巻いて育てた野菜の成長。そして、自分の日々の意識の在り方からの、自己の成長。
ともすると、自分に対しては、どうにも厳しい評価を与えてしまう。「いやいや、まだ、ダメだ。全く成長していない」、などなどと。そこで、先程の『同じ行為を繰り返す=コツコツ積み上げていく=成長していく』の方程式を、逆方向から追っって見みる。『成長したい=毎日やる=習慣』とすれば、『ああ、今日もやったね=ひとつまた積み上げたね=今日も、また、成長したね』、なんて具合に。そしたら、随分と気持ちが楽なもので、日々やる楽しさに繋がっている。
そんな、意味で、今日も日記を書いて見ました。
うん、昨日から成長している手応えがある。
嬉しい!
そんな意味で、今日も絵を描きたい、唄いたい、ご飯を作りたい!
今日も解像度上がりそうです!