朝5時前に起きる。瞑想。目覚めはよかったものの、瞑想中に随分と眠気に襲われた。一時間の瞑想終了の鐘がなっても、しばらくウトウトと座っていた。昨日、食べすぎたせいかしら!?
背中越しの障子からは、確かな光が透けている。ランニングウエアに着替える。ついこの前までは、この朝の時間割でランニングしようと思っても、まだ外は暗く、街灯もない集落なもので、しばし時間を遅らして走っていたものだったのだが。今朝は気分を変えて、集落のアスファルトの車道ではなく、裏山の尾根道を久しぶりに走ることにした。山道は上り道がキツく、ほぼ早歩きぐらいのものだが、いつもよりハアハアと息を上げている。峰の中腹の祠を拝んで、帰ってくるのがいつもの裏山コースだが、今朝はこのまま祠の後ろに続く道を抜けて行ってみよう。丘陵の頂上線まで出ると、辺りは一段と明るくなり、朝の陽光が、芽吹きはじめの木々たちの枝を抜けていた。木々の先の目下には、四万十川が伺えた。時折、蛍光の緑色に光った、ヤマツツジの新芽が目にチラチラと写った。この時期の木々の新芽は、何とも、光って見える。人間の赤子も光って見える。新しい命の輝きのようなものだろうか。
山道のアップダウンの行程は、最近使っていなかった筋肉を随分と使ったようだ。いつもと違う筋肉疲労がある。そして、走り終わった感覚もまた異なっていた。爽快である。そういえば、木々を抜けていく景色の中に、目の筋肉が緩るむのを感じた。様々な対象物への、様々な距離を捉えていくのには、目は可動域を広げるため、緩んでいる必要だあるのだろう。足元は凸凹しているもので、次のステップへの事前の注意に気を配りながら、様々な感覚を足の裏から感じ対処していく。進む先は倒れた幹や、突き出した枝があるもので、一直線の動きとはいかない。走り終わってみると、視界、足の裏、体幹の移動、こうした様々な方向からの刺激をいっとき受けてからの解放に、体のより深い部分から爽快感を、森から抜けてきた空の広がりの爽快感と共に感じている。
山から降りてきて、また自宅の裏山に戻ってきたままに、最近取り組んでいる果樹の鹿避けネットの様子や、畑の様子を確認する。なんなら、このまま外仕事に入っていきたい気分だ。朝の山のランニングの道筋が、今日一日の暮らしの仕事のやる気にもつながっていく感じが、これは習慣のデザインに組み込めるかも知れない、と思た朝だった。
シューズを脱いで、座敷に上がりウエアを脱ぎながらカレンダーを眺めていると、『春分の日』を含む3連休であることを確認した。それは、太陽が昇る時間も、早かろう。畑も、やりたくなるだろうに。季節と気持ち、暮らしの営みが、一緒に動いていることを喜ぶ。
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ー あなたが働くのは、大地と、そして大地の心と、足並みをそろえるため ー
『預言者』:カリール・ジブラン