1ヶ月ぶりもの我が家である。あれやこれやと訪ね歩いて、1ヶ月も家を開けていたものだ。どうしたことか、旅のお仕舞いごろにはどうにも落ち着かず、はやく家に帰りたいとも思ったものだ。これがホームシックというものでしょうか。家に帰って、いつもの営みに戻るのが懐かしく、いつもの日課が恋しく、とにかくなんでもいいからパソコンを開いて文章を書き綴りたいとの気持ちも強く、明確な意図もないけど書くことがしたくて、こうして朝から文章を書いている。

 家に帰って二日目の朝は、ありがたいことに、梅雨空は青空に変わっていきそうで、洗濯機を回した。このまま、草刈りもできそうだ。洗濯できることが嬉しい、草刈りできることが嬉しい、日々が嬉しい。そんな思いのわたしの今は、旅で十分な滋養をもらってきたようだ。旅を始めた20代の頃は、日常からの脱却が旅の目的だったのに、歳を重ね、40代前半の今のぼくには、旅は日々の暮らしのための滋養の時間へと、自分の大切にしているところの軸が変わってきている。そして、旅も暮らしも、相互に作用しあって共に必要だと、改めて自覚している。



 旅の途中で会いに行った友人は、「うれしい、うれしい」と何度も口にしながら、簡素な表現のなかにそれは豊かな気持ちを乗せて気持ちを伝えてくれていた。そのシンプルな言葉の響きの繰り返しが、ぼくのこころに今でも心地よく響いている。それは、友人にとっては日常の暮らしの中に響かせた、「うれしい」の豊かな音色だったことに、ぼくにとってより感じることがあったようだ。いま、ぼくも、その子を真似するように「うれしい、うれしい」をこころに呟きながら、自宅の朝を迎えている。今日一日の営みの喜びを、感じている。

 数分前に洗濯終了の呼び鈴が聞こえた。とりあえず書いたので、書きたい欲も満たされた。さあ、パソコン閉じて、外に出よう。

 洗濯物干して、畑の草刈りをしよう。鎌持って、しゃがみこんで、まじまじと植物たちと顔合わせての再会が楽しみである。昨日の夏至の雨の中、ぐるりと一見したところ、野菜たちは草に埋もれながらも、今までになくよく育っている。ほんとうによく育っている。それは、留守の間に、大切に植物のお世話をしてくれていた人がいたからだ。それは、その子の気持ちが植物たちの栄養となっているようだった。そして、帰ってきて初日の昨日は、雨の中、畑の野菜を収穫していただいた。しばらくぶりということもあってか、それは、たいそうに美味しかった。「あぁ、これこれ」と、体が喜んだ。そのひさびさの美味しさに、いつもより、色々なことへの感謝の気持ちに溢れたものだった。