去る8月3日、
京都・Farmoonにて『The Silent Dinner & Music 』たるイベントを催しました。

この会では、参加者、スタッフ一同が、一言も言葉を交わさず静寂の中に、音楽と料理を共にしました。
主催者側からお願いしたことは、ただ、「言葉なく、静かな夜にしましょう」ということだけです。
食事瞑想のような、意図的な方向へ導くガイドはありません。
ただ、言葉なく、その場を、共にした夜でした。

『 The Silent Dinner 』の味わいを、綴ってみたいと思います。








静かな、夜だった。



思い返してみると、

静けさは、あちらからやって来たのではなかった。
わたしたちが、静けさを選び、身に纏ったのだ。

静けさとは、空虚さではなかった。
内に広がった静けさの空間に、感覚が溢れた。
溢れる感覚に、満ち満ちた。




この旅路が始まった時、

静けさの入り口に立っていたのは、一人ではなかった。
その晩に集まった人々の顔が、呼吸が、気配が、共にあった。


静けさの入り口を開けたのは、一人ではなかった、一人では成し得なかった。
これほどの大きな揺らぎない静けさは、共に生み出す作業が必要だった。

そして、扉を開いた。
皆がいたからこそ、開かれた静けさ。



道を進み、静寂の森を抜けていくと、段々と、森の色、匂い、風、がより感じられるようになってきた。
「いつもの風なのに、いつもの景色なのに」と呟く自分がいる。


そこは、いつもの景色なのに、いつものありふれた行為であるのに、鮮明さを増していくばかりだった。
増しいく鮮明さに圧倒されながらも、それと同時に溢れ出る喜びを、瞬間瞬間に味わっていた。

瞬間瞬間に味わい、この瞬間の生まれ消えゆく感覚と共にいたのだ。
そこは大きく開かれた、その瞬間の広がりだった。
広がりの無の野原には、いつものわたしの価値判断の思考は、遠く遠くの山並みでしかなかった。

わたしは、世界の鮮明さが一変していくことに驚き、驚く度に、よりゆっくりと歩を進めた。
時には、立ち止まり、寝転がり、その景色を楽しんだ。
今のわたしの全ての存在で、景色を楽しんだ。

ただ、いつもの意識を、所作を緩め、ゆっくりと、時には立ち止まる。
わたしが、行ったことといえば、それだけある。



気づくと、この道は自身の内側へとつながる道だった。
内に、内に、とても、とても、深くにまでやってきた。
自分の内なる場所にこのような、安堵の場所があったなんて。
立ち止まり、今を見つめるだけで、こんな草原への入り口を見つけられるなんて。


気づいてみると、先ほどまで共にいた人々の姿はここにはいなかった。
自分の奥の奥にまでやって来たのだから、そのはずだ。



しかし、同時にわたしは、皆を感じていた、存在で感じていた。
人々は、わたくしと同じくに、よりそこに存在していた。
言葉の国の街から出てきて、存在として、この草原で風に吹かれていた。



どこか近くて遠いあの草原で、風に吹かれるみなみなの存在を感じていることに、大きな安心を覚えていた。
共にある感覚がした。



そして、一人一人が各々の大きな深みに浸っている様子に、自身の内に、喜びと感動が溢れた。
わたしたちは、このように手を取り合って、共に共鳴していた。



言葉なく、わたしはわたしの今を感じている。
言葉なく、隣人たちの喜びを味わっている。
わたしの六感全てで、味わっている。



そんな、静かに、溢れる、夜だった。



静かな、美しい、夜だった。



今でも、

鮮明に記憶に残っている。





後日談:この会をやるにあたって、今回お料理を担当してくれたFarmoon雅代ちゃんが、はじめに伝えてくれた言葉を「なるほどな」と噛み締めている今である。彼女は、以前にも二度Silent Dinnerを主催した経験があって、「お客さんと、一言も言葉を交わしていないのに、一人一人のことをとてもよく覚えている。言葉を交わす席で出会った人たちよりも、より記憶に残っている」と言っていた。ぼくは、Silent Dinnerに参加すること自体初めてのことだったので、「どうゆうことだろう?」と思いながら聞いていたのだが、今回の後記を書きながら、「そういうことだったのか!」と納得の着地点まで至った。

 それは、矢継ぎ早の言葉の情報がなかったことで、その人自身を感じることができた。それは、その人自身も、言葉なくその人自身のままでそこにいてくれたから、より存在を味わえた。味わい切れた。『味わった!』ではなくて、『味わい切れた!』ということがとっても大事なんだと気づいた。そう、言葉の交換が二者以上で生まれると、自ずと調和の力から自分のペースを保てない。情報に対して、味わい切れない、消化し切れない。The Silent Dinnerでは、言葉の要素が外されたことで、相手のことも、お料理も、空間も、時間も、自分の尺度で、味わいきって、消化しきって、それが身となり糧となりの確かさだったのだろうと感じている。

 そして、何よりも、この夜の美しさは、すでにあるもの、誰しもが平等にアクセスできるものにつながる時間だったからこその、個でありながらも、喜びを共にすることができたのだと思います。何かを手に入れに行くのではなく、能力の差によって手に入るものに違いが生まれるのではなく、すでに内側にあるものに気づくことからのギフト。それは、失われることのないギフト。

 なかなかに、味わい深く、様々な気づきのきっかけになる会だったので、こうして言葉にしてもうひと作業加えて、あの晩の栄養をさらに消化吸収したくなりました。

 わたしたちは、瞬間瞬間にたくさんの将来の種を蒔いている。その種は、雑草と呼びたい感情の種もあるし、これから大きく育てていきたい果樹と呼べる種もある。あの晩、ぼくは確かな種を授かった。しかし、授かっても、日々の水やりを忘れては枯れてしまう。せっかくの種、『大きく育て!』と、日々の食卓にも、あの時感じた静寂をより意識したいものです。

『雅代ちゃんのRaw Foodのお皿の数々。静けさのスパイスとの相乗効果で、一口ごとに驚きの至福と共に、いただきました』