先日からの、旅のお話からの続き。

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= 当時のメールを読み返し、いま思うこと =

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「自分も、何か表現できる手段が欲しいと、強く感じるようになった」
 当時の友人たちに宛てたメールに書かれていたこの言葉は、20代の始めの頃の自身の心情を、痛切なまでに現しています。
Rainbow Gathering の場で生まれてきた、この新たな感情は、とても自発的なものでした。何よりも素晴らしかったのは、そうした気持ちのきっかけとなったインスピレーションは、一緒にいる人々の姿から受けたものだったということです。こうした人々と、長期間、寝食を共に過ごしたおかげで、日本ではなかなか踏み切れずにいた学びへの第一歩が、気づけば、とても自然に踏み出されていたのです。日本では、あんなにも、その一歩が踏み切れずに、もがいていたというのに。
「もがいていた」というのは、あれやこれやとやりたい気持ちはあるけれど、実行に移す術を知らなかったのです。いや、「術」というよりも、学びのための「場所」を見つけられていなかったのです。
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「どこで、学べるのだろう」
「どこの、学校が良いだろう」
「そのための、お金はどうやって稼げば良いだろう」
「アルバイトは、何があるかな」
「学校が始まるまで時間があるので、それまで、とりあえずアルバイトに励もう」
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これが、ぼくの思考回路です。
思考回路というよりも、思考の「道筋」といったほうが、わかりやすいでしょうか。
「廻り道」ばかりの、思考の道筋です。
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 「学びたい」と思った瞬間の、こころの「ワクワク」は何処へやら、意識の対象はどんどんと、他所へ他所へと外れていくばかり。それと同時に、いろいろと調べていく過程で、その分野で功績を残している作品や人物に触れ、まだ何もしていないというのに、自分の中でどんどんと終着点を遠くへ設定してしまい、その道のりの長さに意気消沈してしまう、という結果です。そして、気づけは、学びたかったことへの「本質」はなんだったのか、探せど探せど、もう見つかりません、脇にそれた景色のことで頭がいっぱいです・・・。
それが、Rainbow Gatheringでは、ディジュリドゥを吹いているのを聞いて、大・大・大感動して、「ぼくもやりたい!」とすぐさまに口にしてみたら、「そしたら、じゃあ、ぼくのを吹いてごらんよ、教えてあげるよ」と、こころが動いたその次の瞬間に、学びを得られたのです。ということは、「学びたい」の願望は、この時点ですでに成就してしまっているのですよね。学びの流れに、第一歩を踏み込んだわけですから。願望は「学びたい=第一歩を踏み出したい」であって、「素晴らしい作品を創りりたい」、「一流になりたい」が、ワクワクの本質ではないのですから。そうか、「学びたい」の願望は「ワクワクを持続させて行きたい」という願望故なのかもしれません。「持続させたい」というその一歩一歩の道筋の工程にワクワクが存在しているのに、「結果」の終着点だけを見て足元を見ていなかったら、そりゃ、道からそれて迷子になりますよね。
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Rainbow Gatheringが、もの凄かったのは、もう、その「学びの場」が一つの生命体として有機的にうごめいていたことです。その場の自然、自然が提供してくれる資源、共にいた人々、人々の意識、人と人・人と自然の繋がり方の意識、そうしたものによって形成されていく、場の環境の有機性。ぼくの「ディジュリドゥを吹きたい」との学びの願望に、「よし、明日、竹を切りに行って、きみ自身のディジュリドゥを作ろう!」と、こちらが求めてもいなかった、さらなる学びの提案だされました。場に張り巡らされた有機的ネットワークシステムから、次なる提案がもたらされるのです。こちらが願っていたこと以上の「学び」が、どんどんと雪だるま式に膨らんでいくのです。いざ、ディジュリドゥを作ってたら、次なる提案は、「よし今日から、朝ご飯の後はみんなで集まって、ディジュリドゥ・サークルをやろう!」ですからね。そして、吹いていれば、「Wow  !  君、最高に幸せそうに、音を鳴らしているね!もう、こっちまで幸せいっぱいだよ。もっと、吹いてくれてよ!」 。こんな褒められ方、今ままで、されたことありませんしたからね。そりゃ、こちらも、さらに嬉しくなって、さらによい音、鳴らしてしまいますものね。
 もう、この勢いで「学び」がスタートしますと、「躊躇」がありませんから(というか「躊躇」という概念自体がなくなります)、ただ「喜び」とともに、そこに「在る」ことができます。もしかしたら、「学び」には、【右肩上がりの成長:以前よりも上手になっていく】との前提が意味合いが含まれているかもしれません。けど、ただ、その時の「喜び」を「表現する」と言えば、「上手い下手」を超えた、その瞬間に「在る」状態になれます。小さな子供たちは、まさに、この道の達人ですよね。ぼくにとっては、Rainbow Gatheringの人々が、大人のカテゴリーに属しながら、この極意を体現していることが、衝撃だったのです。そして、「あっ、そういうことか」と、肩の力が抜け思いでした。Rainbowの人々、いつもニコニコ、いい具合に力抜けていましたものね。
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この「学びの場」がもたらす影響に、とても興味があります。
それと同時に、とても、危惧しています。
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  旅に出るまでのぼくは、燻っていた大学生活が特にそうでしたが、興味の対象とリンクできる場所は、雑誌やインターネットなどの間接的な媒体がほとんどでした。その反面、旅先では、興味ある物・人々に、等身大でリアルに、触れられるチャンスがありました。旅は、まさに、真実の「学び」の場だったのです。それは、「学び」にとって、そこにいる人々を含めた環境が、とても重要である、ということを意味しています。

「学び」にもいろいろな手段があると思いますが、アカデミックな場所での「学び」とは別に、自身の置かれた自然な環境からの「学び」というものもあると思います。例えば、日常の「暮らし」の中で、大人たちが楽しそうに日々、音楽を奏で歌っていれば、それは子供達にとって、まるでネイティブな言語を身につけていくように、歌を歌うことは、とても自然な学びとなっていくことでしょう。周りの大人たちの存在は、子供達にとって、とても重要だと思います。

 ぼくも、Rainbow Gathering や、その後の旅で出会った人々の存在のおかげで、今の生活の糧にもつながっていくような、音楽や料理、靴作りといった、自己表現の手段を学んでいきました。結果、そうした自己表現のおかげで、何年も、旅先でお金を稼ぎながら、旅を続けていくことができました。それは、日本に帰ってきてからの生活の糧にもなっています。そして、それは、「暮らし」全般を創造することにも繫がっています。ぼくは、大学卒業後、日本で、いわゆる企業に就職をすることを選びませんでしたが、生きていくための術を身につけるという意味では、旅先こそぼくが選んだ場所だったのです。ぼくは、その時の学びの恩恵を、いまでも、有り余るほどに受けています。そして、これからも、大きく育てていきたいです。

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 ここまで話しを進めてくると、ついつい、「旅先で、有意義な技術を学んだ」という「結果」に意識がズレてしまいますが、ぼくが Rainbow の人々から受けたインスピレーションの源泉は、表現することの「喜び」です。彼らは、こころの底からの「喜び」を、歌い、奏で、表現していました。ぼくには、それまで、そんな大人たちが周りにいませんでした。そんな、心からの喜びの音楽を奏でる大人の姿に、生で触れたことはありませんでした。ぼくが表現したいと思う気持ちも、この感動から始まっています。そして、これからも、そうありたいと願います。

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