* 愉英雨 *

ゆえいう。英は花の意。

人のためではなく、花を楽しませるために降る春の雨。

 昨日の朝方より随分と雨が降っている。朝方より降り始めたと書こうとしたところで、手が止まった。それは、いつから降ったのか、そんな微かな移ろいからの雨であった。しかし雨は次第に強まっていった。こちらが意識が途切れた寝ている間も、雨はしげしげと降り続いていたのだろう。眼下の四万十の流れが大そうに増している。これだけ川に水が出たのなら、裏山の谷にも水が現れるだろうか。家の中から、窓越しに川を眺め、谷に耳すます。小用を足しに、つっかけ引っ掛け、お勝手口より外に出れば、やはり気になり、家の裏回り、谷の裾野へと。家から聞いた音の通りに、そこには、まだ水は流れていない。足元の紺照鞍馬苔(コンテリクラマゴケ)たちは、満ち満ちたように鎌首を持ち上げている。雨の中とても晴れやかな姿である。晴れの中、低く体勢を構えていたこの数日を思えば、谷に水脈表れずとも、この植物たちの葉脈には流れが生まれているようである。雨に輝く苔の様子を期待していたのか、まだ霞んだ様子にこれからの雨のことを思った、冬の寒さに焼けたチリヂリとした葉の末端のその様子は、まだ衣替えの最中のようであった。紺照と言うだけに、それはまるで龍のヒダのような、紺色に碧く静かに翠に輝くその姿までには、まだいっときの雨が必要なようである。足元から目をはなし、思いを谷にそって上らせていく。あの竹藪の下あたりではチョロチョロと水が滲み出てきているのだはないかと予感する。そこから、また意識を谷に沿って降ってくれば、水脈欲しさに、谷につっかえた枝を掃除したくなる。もしかしたら、このような撫でるのような雨であれば、外仕事にも潤うひと時となるかも知れない。雨の調合に大気がしっとり、香っている。

 今朝の自分の行動が、なんだか、たいそうに、いつもと違うこと。いつもと違う時間に、いつもと違う場所に足を踏み入れている。そんなことを思うと、こちらの我が身も雨ひとつに随分と行動を変えているようである。ここにも水脈が流れているようだ。水脈感じてみましょうか。雨降って、お日様照る度に成長していく木々、草、苔の姿見れば、ぼくも雨をしっかり味わいたくなる。足踏み揃え、共に並んで季節を闊歩して歩きたい(畑を営んでいると、なんだか、いつも季節に半歩から数歩遅れて、なんとか小走りでくっついていっている気持ちになるのは、どうしたものか・・・)。

 この雨に、見事に咲いたモッコウバラの蔓の束が沈み、花びらが散っている。たわんだその姿に、毎年のこの時期の雨の多さを思い出す。咲き誇った晴れの姿からの変化に、残念との思いは『愉英雨』の言葉を目にして、風雅な姿に変わっていく。雨の中、野山に、花々が静かに佇んでいる。こちらも佇んで、雨浴びて、その姿を眺めましょうか。そしたら、その姿もまた、眺められるに値するでしょうか。日々の立ち位置を、謙虚に踏みしめるような気持ちである。

言葉一つの力。感性を文字に託して残した人々がいたのだな。

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