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『 つい先日、その市が、鮮やかな質感とともに私の夢に出てきた。私はいつものように腕に籠を抱えて売店を縫って歩き、エディータの店に取り立てのコリアンダーを買いに行く。楽しくおしゃべりした後、お金を払おうとするとエディータは、要らない、と手を振り、軽く私の腕を叩いて立ち去らせようとする。贈り物よ、と彼女が言う。
パン屋もお金を要らないという。
見慣れた市場のはずなのに、様子がガラリと変わっている。
私だけでなく、誰もお金を払っていないのだ。
ここで使える通貨は感謝だけなのだ。
すべては贈り物なのである。
まるで野原でイチゴを摘んでいるみたいに。
おかしなものだ−市場にあるものが全部単にとても安いものだけだったら、たぶん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも、全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。そして、明日私は何をお礼にもってこようかと考え始めた。』
BOOK:『植物と叡智の守り人』より
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森を抜けて歩く、鳥が上空でささやき歌っている。光が挿す方へと気持ち惹かれ、小径を抜けていく。道の両脇の足元にはたくさんの小さな草花たちが踊っている。奥の茂みに目をやると、シダたちが、音符を宙にうっている。足取りは軽快になっていく。
見慣れぬ土地にだどりついた、その日の午後であった。車を止めた先に、入り口が開いていたもので、不意に入っていった森であった。小川をたどっていくと、空高くから射しこむ陽光に、石楠花の淡い桃色の花が煌めいていた。はじめて石楠花のあるべき姿を見た気がした。小川の流れが響いていく方へいくと、木々が開け、河原にひだまりが落ちていた。石の上に寝転び、日を浴びた。
こんなにも誰も彼もがぼくを喜ばしてくれる場所であったのに、あの森の入り口で、そういえば、入場券を払っていない。
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すべて、贈り物であった。
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そして、この贈り物は、ただ味わうことだけで成立するものだった。
ぼくは、何も採って帰る必要もなく、味わえばよかった。
森は、また来たらいいよ、と言った。
また別の贈り物を準備して待っているよと。
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ぼくは、今のこの時だけの、若葉に抜ける春光を、味わっていた。
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