ー 紅の雨 ー

くれないのあめ

紅に咲く花々に降る雨。

晩春は躑躅(つつじ)、石楠花(しゃくなげ)など、

濃い紅、薄い紅とさまざまな花が咲く。

春の最後を飾るのは芍薬と牡丹。

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***

森で見た石楠花の花の姿は、実に見事であった。
木々から抜けてくる光に照らされ、濃淡さまざまな紅の花が浮遊していた。
ぼくは、そこに佇み、ついにあるべき姿をお目にかかれたような、そんな気持ちとなっていた。

というのも、そのちょうど一週間前に「石楠花祭り」なるものを訪ねていた。公園の大きな空の下、芝生の延長線上に石楠花の姿を目にしていた。そこには、幾ばくかばかりの、「こんなものか」との声も混じっていた。

こんなものか、とは随分と失礼なものである。弁明のために言及すると、「こんなものか」との言葉は、石楠花に向けて投げつけたものではないようだ。その矛先は、実際のその姿と、それまで自分が石楠花に思い描いていたイメージへの、ズレを指したものである。「あれ、ちょっと、思っていたのより違いましたね」、との言葉が「こんなものか」との表現に変換されてしまったようだ。

では、どんなイメージを抱いていたのだろう。

 石楠花のことをはじめて聞いたのは、村人のおんちゃんからであった。「あそこの山の随分と登った峰の辺り、そこには、石楠花の群生地がある。四月の終わり頃、ちょうどGW(ゴールデンウィーク)の頃が花の季節だよ」と、たいそう嬉しそうに語っていたものだから、ぼくも、人手が減るGWが終わるのを待って、その山を登ってみた。山の上でしか会えぬ、貴重な花の姿をたいそうに楽しみにしていた、

その日、群生地とは別の方向から上っていき、山頂にて一夜を過ごす。翌朝、テントを畳んで、峰を降りはじめたところで、ついに石楠花の群生地、ら・し・き、場所を見つけた。というのも、もう、花は終わってしまったようである・・・。人が減るのを待っていたら、花も散っていた。花を愛でたい気持ちは、みな同じである。独り占めできないようだ。しかし、それからというもの、新緑の気持ちよさもあって、この時期にその山へ登り一泊して帰ってくるというのが、毎年の恒例となった。されど、お山の上のお花の気持ちを察するのは難しく、なかなかにこちらの気持ちと日程とがピタリとは合わない。おんちゃんの顔をあんなにも満面の笑みにさせていた、その姿をまだ知らないのである。いつの日か。

そんな、思いであったばかりか、庭木にみる石楠花でなしに、森の中のその姿に、たいそうに喜んだ自分がいたのだろう。
森を抜けて歩いた先に見つけたという行為に、さらに満足したのだろう。


***

あの日の石楠花の感動への考察。

森の中にあった花の美しさには、全体性が宿っていた。
木々を抜ける光に花が光っていた。
森の新緑とのコントラストに紅が輝いていた。

枝を踏み締める足裏からの感触が、体幹を貫いていた。
空狭く、木々に覆われている皮膚感覚が、原始的感覚を開いていた。
森の香りが、肺を満たし、血流に巡っていた。

もしかしたら、ぼくの心が反応していたものは、全体性だったのかもしれない。
花ひとつの美しさを抽出したものでは、なかったのかもしれない。
それは、森の相互依存の生態系システムからの贈り物だったのかもしれない。

昨日の日記に「森の贈り物」と、タイトルをつけたもので、
「贈り物」の意味を考えた一日であった。

森の時間、相互依存の関係性に、我が身も含まれていたのだろうか。

地球の時間、相互依存の関係性に、我が人生も含まれているのだろうか。

***

「紅の雨」の記述には、躑躅(ツツジ)の紅にも言及されている。ツツジは、ぼくが育った街では、ところかしこに街路樹として植え込みがしてあった(と、小さな頃を思い出していたら、サッカー少年であった小学生の自分の姿が出てきた。思いっきりボールが蹴れる練習相手に、ツツジの生垣を見つけると、ぼくは、ひたすらにサッカーボールを蹴り込んでいたことを思い出した。あ〜、今更ながらに、ごめんねー)。この人生ツツジのその花の美しさに、てんで引かれることはなかった。しかし、高知に来て暮らしはじめてからというもの、裏山にいつもより深く足を踏み入れた日に出会う、森に極彩色の彩を添えているツツジを目にしてからというもの、このツツジの季節も楽しみにしているということも、付け加えておきたい。

今朝も

見事に雨が降っている

窓の向こう

山が霧だっている

霞んだ森の

大気のグレーは

その紅を

より一層、際立たせているのだろうか

紅の雨

偲ぶ