ー その土地に根付くためには、その土地の言葉を学ばなければならない ー

BOOK:『植物と叡智の守り人』より

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 本の中に、「植物の歌う歌」という言葉を目にした。
それからというもの、どうにも、このひびきが頭から離れない。
何とも不思議な言葉である。


新しい価値観を知ったというよりも、どこか懐かしいような、そんな気持ちが湧いてくる。
わたしは、思い出したのだろうか。
しかし、「思いだす」という表現をここで使うことに躊躇する自分がいる。
何と言っていいのだろう、とても不思議な感覚なのだ。



それは、同時にありがたくもあった。
この山に暮らすようになったことを思い出す。
わたしは、何かを求めてここまでやってきた。
そして、暮らしはじた。


今となれば、その何かは、目に見えぬものであったのかもしれない。
「植物の歌う歌」という言葉のひびきには、その目に見えぬものを、これ以上なく現している気がした。
そんな言葉にやっと出会えたことに、ありがたみの気持ちが湧いてきた。


しかし、わたしは、「植物の歌う歌」の意味するところを知らない。
それでも、わたしは、どうしようもなくにこの言葉に反応している。
わたしは、何かを感じているのだ、ざわざわと。


ざわざわとの音は、深く、深く、体の奥から鳴っている。
遠く、遠く、古(いにしえ)の方角より。

この言葉は、古からの記憶の扉を開ける鍵の形をしていたのだろうか。
扉の隙間から覗く光景に、わたしは「懐かしい」と口にしたのだろうか。



「植物の歌う歌」
このひびきに、ざわざわと、何かを感じている。
何かに、反応している。

もしかしたら、
もうすでに、植物の歌う歌を、聞いていたのかも知れない。
聞いているからこそ、こんなにもざわざわと、反応しているのだろう。

わたしは、まだ、植物が何を歌っているのかを、聞くことはできないし、ましてや、知ることもできない。
しかし、わたしは、自身がその歌を受け取っていることを自覚することは、できるのかも知れない。
ざわざわと、受け取っている自分がいることを。

ざわざわと受け取ったその場所は、耳を通して入って来たものではなかった。
耳を通さずとも、聞くことはできた。
胸の奥に、直接、聞くことができた。

もしかしたら、歌とは、音だけのものではないのかも知れない。
もしかしたら、音は、耳で聞くだけのものではないのかも知れない。

もしかしたら、わたしがこの世界で慣れ親しんできた、『音』や『歌』、『植物』、
そういった言葉たちの定義自体が異なる世界から聞こえてくる歌なのかも知れない。



その世界では、

言葉は生きているのかもしれない。
生きているものに名前をつけたものが、言葉なのかも知れない。

言葉が指し示すものは、止まってはいないのかも知れない。
言葉は止まった状態を指すのではなく、動きの振動を現しているのかも知れない。
そして、言葉で指し示すもの、感情、それは有形の有無にかかわらず、全てが動き続けているのかも知れない。

動き続けているのは、いのちがあるからで、
いのちのエネルギーを、言葉に置き換える術を知っていた人たちが、いたのかも知れない。
人はその言葉を話すたびに、いのちにつながっていることを、思い出したのかも知れない。

わたしは、思い出しているのかも知れない。

もう、思い出すことを、自分に認めてもいいのかも知れない。

異なる世界の物語のことを、いま、ここで、思い出しているのかも知れない。

この物語を聞きたくて、この歌を聞きたくて、ここまでやってきたのだ、きっと。

この土地の言語を喋り、ともに歌うこと

それが、暮らしなのだと思う


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