今朝も雨が降っている。雨音を聞きたくて、裏戸を開ける。雨音と霧裾が、裏山から家の中へと流れ込む。雨音が空間に満ちていく。そして、体の内側も、雨粒の刺激に満たされていく。その感覚に誘われ、ピアノの蓋を開ける。椅子に深く座り込む。背筋をピンと伸ばし、息を吸い込む。気づけば、目はすでに閉じられている。そこに、雨の匂いが漂ってくる。匂いが胸いっぱいに広がったところで、息を吐く。そして、もう一度、息を深く吸い込み、ふーっと、ゆっくり息を吐く。こころは静まっている。静けさに、雨音がより響いている。いっとき、内に宿ったその場所より、雨音に耳を澄ます。遠くで、そこは立ち込める霧に覆われた森だろう、鳥が朝の囀りを始めている。目は閉じられたままである。感覚が開かれていく。目は瞑ったままに、腕を持ち上げ、脇を広げ、そして、指を動かしてみる。鍵盤に指先が触れ、硬く冷たい感触と出会う。そして、「ポーン」と音が鳴った。

 ピアノと知り合ったばかりのぼくの指たちは、どこにどの音があるのかを知らない。目を開いて見たところで、白黒の世界がどういうことなのか、ぼくは知らない。それならばと、半ば諦めて、目を閉じたままに、音を音のままに聴いてみようと思う。ぼくは、音を見たいのではなくて、音を聴きたいのだから。音を音として、奏でたいのだから。鍵盤が押され、「ポーン」と宙に放たれた音。その様子に、「お、こんな音が鳴った!」とおみくじを引いたような、楽しい気持ちになる。瞼の裏の景色には、木々の覆われた朝の神社の境内がひっそりと、霧と雨音と共に広がっている。おみくじの一音が、いくつもの空からの雨音の点線の隙間を抜けて、空に昇っていく。音が飛び去っていくと、また、スピーカーのヴォリュームが戻されたように、雨音が大きく聞こえてくる。しかし、そこは、依然の境内の様子ではない。僅かばかりの変化が生じている。先程の一音が、残響となり、空間に影響を及ぼしている。その残響の揺らぎに音を重ねたく、うねりのタイミングに合わせ、次の鍵盤を押してみる。目は依然と閉じている。さあ、次は、指はどのおみくじを選ぶのやら。意識はありつつも、指に任せる。目は開けない。耳からの音とそれをキャッチする意識。そして、指の動き。この一連の神経伝達回路の間に、視覚の情報を挟み混ませない。音を音のままに。さあ、指さん、誰も見ていないよ、勝手に楽しんで!そして、今朝のおみくじは、引き放題、弾き放題。だから、その一発に力む必要はないのだよ。「ポン・ポン、ポン・ポン」引いてみる、弾いてみる。うん、楽しい。それだけ。「ポン・ポン、ポォン・ボォン」。あれ、変な音。失敗しちゃったかしら。おっと、そんなの考えている暇もない、雨音は軽快に次の音を奏でている。それならばこちらも、「ポン・ポン、ポン・ポン」。うん、楽しい。それだけ、それだけなのだ。今朝の雨音は、依然と軽快なのだ。

 これも、毎日の日課になったらいいな。毎日少しづつ、楽しくやったら、上手になるかもね。ピアノをいただいて、ピアノということで、構えてしまったもので、ピアノと一緒に頂いたボロボロになった黄色い教科書を開いてしまったもので、あの子の幼い赤鉛筆の字と一緒に「ド・レ・ミ・・・」となれない言語の暗号解読を始めてしまったもので、なんだか息苦しくなって、楽しさ見つけずに、止まってしまっていた。気づけば、音が音ではなく、音はオタマジャクシにすり変わってしまっていた。ぼくは、習おうとすると、習えないのです。習いたくて、習うのにね。そう思うと、今も続いて楽しんでやっているあれこれって、みんな誰からも習わずに自分で勝手に始めたものばかり。それが、楽しいから。楽しくやっていると、わからないことはもちろん出てくる。そんな経験からのわからないことは、自分のわからなさ具合というものが、とても明確で、それは習うことの喜びを生み出す。そして、経験者に聞いて、教えてもらって、それで、できなったことができるようになると、わあ、もっと楽しい! あ、ここでは、独学で黄色い教科書を開いたわけだから、誰かに習ったわけではなかったことを思うと、「用意されている型にハマる」ことに楽しさ見出せず止めてしまうのが、原因なのだろうか?型の輪郭線が一番になってしまうと、衝動からの行為・実践へと直結させることを、ややこしくさせてしまう。ややこしくなって、こんがらがって、へたれてしまう、ぼくなのです。こんがらがる前に、とりあえず、やってみる!
 
 楽しいから、奏でるし、奏でたものに音符をつけたら「ド・レ・ミ」。誰かから、「じゃあ、このド・レ・ミを弾いてみて」と先に言われたら、もう「ド・レ・ミ」と弾けないぼくがいる。ぼくの「ド・レ・ミ」は、もう、ぼくの「ド・レ・ミ」ではなくて、誰かの「ド・レ・ミ」。そして、誰かの「ド・レ・ミ」を弾くのを頑張ってみたけど上手にできなかった、小学校からの音楽の授業。はあ、音楽の授業、つまんなかったなー。誰もぼくの「ド・レ・ミ」を聴いてくれなかったもの・・・。

 ぼくが、習うことを上手にできないというのは、習うというのは「まず自分で考えずに、言われた通りにやって見なさい」ということに、楽しさを見いだせないから。まずは、自分で考えたい。考えて、自らに出てきたアイデアや、感性にワクワクとして、楽しみたい。もう自分勝手に楽しみたい。まずは楽しませて!はじめから「違う!」とか言わないでー。もしかしたら、違うことを違うままに放っておいてくれてたら、「違う方向での正解」を見つけるかもしれせんよ!そして、はじめに楽しい思いをできたのなら、もっと楽しい思いをしたくて、繰り返す。その行為を練習と呼んだり、日課と呼んでもいいかもしれない。自分でやってみてわからなかったら、考えて、試みた末の質問を、誰かに聞いて、習いたい。それが学ぶということ。考えずに、真似るのとは違う。

 「さあ、お弁当を作りましょう」と言われたら、「あれ入れて、これ入れて」と言われれる前に、「お弁当を作ろうってことは、お弁当箱から作ろうってことでしょう!」って思った方が楽しい。お弁当の箱を自分なりに作ったら、「このお弁当箱なら、このおかずでしょー」とお弁当箱の隅々の形状までぼくは知っているだけに、そのお弁当箱があってこその中身のおかずを選ぶ楽しさを味わうことができる。もし、お弁当箱を失くしてしまっても、「まあ、いいか」と、また作れる自分がいる。もし、お弁当箱が壊れたとしても、壊れた原因を考察して、改良して、もっとよいお弁当箱を作るチャンスになる!
  

 勉強や学び方というのは、人それぞれでいいと思う。小さな頃、学校で「習い方を習う」ことができたよかったのにな。「何」を習うか、というその前に。すでに決まったお弁当箱に詰め込むだけの作業ではなくて。しかも、何を詰め込むかまで細かく支持されるのは、ちっともありがたくない。楽しくない。ぼくという個人を、全くに無視されている。もし、クラスのお友達と、それぞれの奇想天外な学習方法を披露し合えることができたのなら、それはなんとも個性的で楽しいことだろうか。子供たちの一人一人のアイデア・感性が、そのままに・ありのままに、肯定されている。もしかして、ある時点までは、大人や先生は側で寄り添ってくれるだけで、ありがたいのかもしれない。寄り添って、自分勝手の様子を励ましてくれたら、最高だ。

 今朝は、雨音が、雨音のままに寄り添って、時に励ましてくれました。そして、音となりました。その音を聴いてみると「ド・レ・ミ」と鳴っていました。恥ずかしくもありますが、誰か、今朝のぼくの「ド・レ・ミ」を、聴いていただけますか・・・。