山から海へと向かう途中に、小さな良心市がある。この市を覗くことは、海へいくことの楽しみの一つだ。しかし、残念なことに、ここは週末にしか開かれない。車窓から横目に通り過ぎていくことがほとんどであるのだが、今日は「営業中」の看板が見える。海への気持ちと市開きのタイミングが上手くあったことに気づき、喜ぶ。それならばと、躊躇なくハンドルを右に切り、車止め、買い物袋まさぐり、いざ、外に出る。

 戸を引いて、こじんまりとした建物の中に入り、ぐるりと一周する。そして、「おばちゃん、今日は野菜ぜんぜんないね」とぼくが言う。「そうね、今朝方までずっと雨だったしね。それに、来るのちょっと遅かったね」と、おばちゃんが言う。そうか、そうか。「では」、ともう一つのお楽しみはどんな具合だと、外に目をやる。ここは、園芸品もとても良いのだ。いつも、粋な、他のお店では見かけないような、渋い草花が置かれている。近所に通な園芸家がいるのだろうか。どんな人だろうか。おじいちゃんかな、おばあちゃんかな、どんな庭なのかな。

 赤い花と斑入りの葉っぱが美しい鉢物を一つ、レジへ持っていく。おばちゃんは、「これはお得よー」と言う。「その通り、ここの市は、どれもお得なものばかり」と、ぼくは「ありがたいなー」との言葉も添えて、こころの中につぶやく。「これ、花芽もさせるからね、どんどん増やせるよ」と、おばちゃん。お金を払う隙もなく、熱心にお花のことを教えてくれている。あまりに詳しいもので、「ひょっとして、これ、おばちゃんが育てて売っているのですか?」と聞くと、「いやいや、近所の方よ。ただ、わたしも植物が大好きでね」と言う。顔はレジ台に置かれたお花を見つめ、下を向いたままである。花は、こんなにも不意に、こんなにも側で、おばちゃんの「大好き」の告白を受け取った。嬉しびっくりに、花はいっそう赤くなったりして。その一方で、おばちゃんの「大好き」との言葉は、ぼくを不思議な感覚に誘っていた。その言葉が指しているところは、実際には、何なのだろうかと。どこへ向かっての言葉なのだろうかと。

 というのも、「植物が好き」と言ったおばちゃんの口調は、本人も無意識の部分で、どこか違う次元で語られていたような。目に見える以外の部分を指して「好き」と言っていたような、そんな不思議な感覚だったのだ。レジ台に置かれた植物に目をやり、まじまじと上から見つめていると、どうにも、その言葉は、植物が放っている数ミリ〜数センチのエーテル帯と言われる部分に、重ねられたもののような気がした。つまりは、植物自体の「お花」とか「枝ぶり」とかのディティールではなくて、植物が、植物たちが携えている空気感というか、その辺りなのだ(断っておくが、ぼくは、オーラが見えるとか、エネルギーが見えるとか、その類の人ではない。けど、ある感覚が自身の内に起こったのは事実であり、どうにか、その感触を言語化してみたいとの思いなのである)。なんとなくではあるが、おばちゃんの「植物が好き」との言葉も、ぼくが本で見つけ、ここ最近気になっている「植物の歌」という言葉から「植物の歌を聴きたい」と思う気持ちも、なんだか、植物が携えている幾重ものレイヤーのある同じ部分に向けて、言っている言葉のような感触があるのだ。おばちゃんは「植物」との言葉を、「総称」として用いていたことを思うと、そのレイヤーは、植物の王国からこちらの世界へ奏でられてくる楽曲のようなものか。その音の調べを、おばちゃんは好きと言ったのかな?その歌を、ぼくは聴きたいのかな?

レジ台挟んで

ぼくと、おばちゃん

飛び交う言葉、その気持ち

二人の間に、その下に

鉢に入った、赤い花

三者の会話、三者の輪

ひらりと、めくって

つながった