『 - 良き母親の中でも一番である地球は、私たちが自分自身に与えることのできない贈り物を私たちに与えてくれる。私は自分がこの池に空ぽの心を満たしてもらいにきたことに自分では気づいていなかったけどれど、私はこうして満たされたのだ。私には素晴らしい母親がいたのだ ー 頼まなくても、私たちが必要とするものを与えてくれる母親が。マザー・アースは疲れることはないのだろうか、と私は考える。それとも、彼女もまた与えることによって、元気を得ているのだろうか?「ありがとう」と私は囁いた。「これ全部ありがとう」 - p137

『 - 私たちは日々たくさんの贈り物を受け取っているけれど、それは私たちがずっと持っているためではない。贈り物は動いてこそ生命を宿すのだ、私たちが分かち合う呼気と吸気のように。贈り物を次の人に伝え、この宇宙に差し出すものは必ず自分に戻ってくる、そう信じることが私たちの仕事であり、そして私たちの喜びなのだ。 - p138 』

BOOK:『植物と叡智の守り人』 * - 子離れと睡蓮 – の章 より

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 『贈り物』とか『GIFT』という言葉や、その言葉が紡ぎ出す世界観にとても惹かれる。『与えること』、それは何か特別なことのように感じるが、地球の営みを考えれば当たり前のことで、自然の営みとはその動きでしかない。しかし、その当たり前のことを、特別と思わせてしまう現実がある。しかし、ある本と出会ったり、ある人と出会ったりすると、何か心の奥にハッと思い出させてくれるような、我に返ったような瞬間がある。本のページをめくりながら、そこに綴られた物語に心震え共感することは、その世界観を内にダウンロードしていくことのようである。自分の信じる現実の物語をも書き換えていく、または、選び直していくようなものである。 


 本を閉じ、外を見回せば、このもう一つの物語は確かに現実として存在している。


ならば、現実とは、どこまでの知覚範囲であろうか。

 ここでいう『贈り物』とか『GIFT』という言葉は、大きな視点に立った時に、その言葉の普遍の美しさが増していく。贈り物とは、人の手から手へと、そして万物の事象へと渡されていく、大きな全体性を繋いでいく糸のようなものだ。自身の手元から糸が放たれ、季節をすり抜け、ぐるりと地球を周り、宇宙を周り、再び自分の元にその糸先が帰ってくることがある。それは、大きな、大きな、安心感だと知る。この安心感が、普遍の美しさなのかもしれない。または、日々の喜びと呼ぶものなのかもしれない。

 畑の里芋が芽を出し始めたこの頃、初々しい命の誕生にすでに喜びを与えてもらっているのだが、季節のページがめくられた先の収穫も同時に思っている自分がいる。それは、ランチに頂いたこの冬の収穫の里芋が、とっても美味しかったからだろう。一年も前に、ぼくは土の中に里芋の家を用意した。寒くなった頃に土を掘って、里芋の様子を覗いてみると、随分の余剰を抱いていた。この冬、その余剰分をいただきながら、ぼくは生きていた。初夏の汗が、冬の糧となっていた。一年の時を経て、里芋にお腹いっぱいになったぼくは、午後の畑仕事に力を蓄えた。与え与えられていることが、嬉しい。

 この自然の営みの『与える』ことの当たり前さを考えると、『贈り物・GIFT』という言葉自体、もう意味のないようなものな気がする。もう『生きる』という言葉の中に、それらの言葉、それらの動きは内包されている。しかし、その動きが分断される現実では、生きるということはなかなかに難しい。だからこその、『贈り物』の大切さか。『GIFT』の糸で結ばれていく、安心感を保っていたい。それは『動き』と定義した時に、もう失うことの怖さはない。移り変わるものを捕まえておくことはできないのだから。そして、「物語」という言葉には、意識に訴えかける力がある。物語を選び直しただけで、糸の輪が宇宙全体に広がって、繋がっていく感覚が生まれたのであるから。そして、外を見れば、それは現実の物語であることに、この物語を信じる価値がある。贈り物が、贈り物であり続けるために、わたしたちは語り継いでいかなければならない。


物語は動いている
わたしたちは、その動きと共に呼吸している

呼吸を糸と呼ぼうか
呼吸していることを、思い出したい

あなたも、わたしも、里芋も、
みんな、つながって、呼吸している