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 昨日は、春分の日を迎え、畑・庭仕事に精を出した一日だった。三月の畑は、食べきれずに残った野菜の分だけ見事な黄色の菜の花畑になっていた。所々に、大根や、ルッコラの白い花も見える。花に向かって、ミツバチが随分と賑わっている。甘い匂いが風に乗ってやってくると、どこかからか、遠い記憶もやってくる。今、自分で畑をやってみて、この匂いが、菜の花の匂いだったのだと、改めて自覚する。匂いは、記憶とつながっている。今日の匂いが、また未来のいつかに香るのだろう。

 一面黄色の見事な畑の景色の中に、ミツバチたちはせっせと蜜集めの仕事をしていて、その様子は微笑ましく(養蜂への願望も含まれてのことだろう)、菜の花はなるべくそのまま置いておいたのだが、そろそろ春の種まきの準備も始めなければいけない。異なる方向への幾つかの気持ちが、内在している。春分の日を迎え、季節の節目が気持ちの境目をつける踏ん切りへと、背中を押してくれてた。

 かがみ込み、種取り用の株と選別しながら高く伸びた菜花の茎を鎌で刈る。土に近づき、植物たちの世界に近づいた。その世界に焦点が合ってくると、勢いを増してきたカラスノエンドウの下、蒼く瞬いていているオオイヌフグリの花々の間から、何やらの新芽の株が等間隔で顔を出しているのを発見す。等間隔の具合に人為的な意図を感じて、これは、夏の終わりに蒔いた花々の芽だと、思い出す。どれも、初めて蒔いた種だから、葉の様子から、花々の名前を言い当てぬ。言い当てぬのだが、その新芽から、育ち、花開いていく姿を、予見している。予見するだけの何かを、その姿から感じている。何を、植物から受け取っているのだろう。何か、植物が発しているのだろうか。この植物とのやり取りの不思議さを、畑仕事・庭仕事の愉しみと言いたい。

 倒した菜花は、下草を引いて畝を起こし直したところへのマルチとした。地面に広がった黄色いマルチは、それもまたよく、よい景色が、春分の日の境にも続いていた。冬は収穫だけで手を入れずにいた畑だが、手を入れた畑の姿も、これからの季節の予見がして、それもまたよかった。

 夕刻に仕事を終えたところで、ぱらぱらと雨が降り出してきていた。 

 今朝になって、雨が随分と降っている。しかし、足は自然と畑へ向く。一晩経っての、畑と施した仕事との親和性を感じたくて。愉しみな、自分がいる。畑仕事、庭仕事の愉しみは、手をかければこそ、育つのだなぁ。今日も仕事の続きをしたいとの思いと、降り頻る春の雨。気持ちが持続していくのも、手を動かしてこそなのだと、春の初動に思う。