4月25日(火)・ シトシト雨

雨降った

シトシト
雨降った

よかったよ

 朝から雨降りで、畑の植物たちにたっぷりの水やりをしたいとこの数日思っていたから、よかったなとホッとしている。そして、雨だと、もう一つのほっとした気持ちもあって、雨を口実にあれやこれやの野良仕事の雑務をお休みできるのである。そんな今日は、屋内作業を張り切ろうかという気持ち。5月の個展に向けて、せっせと額縁作りをしようではないか。

 昨晩話した農家の友達は、「旧暦はよくできたものね。暦によると、今年は14年に一度の2月が2回ある年みたいよ」と言っていた。なるほど、この春は温度が上がりきらずに、苗の成長もゆっくりだと思っていたが、そういうことなのか。昔の人たちは、どうやってそんな自然の営みを、暦に体系化づけて行ったのだろう。それは、よく観察していたことだろうな。情報といったら目にする周辺環境で、今日を生き抜くことは、今を観察して自然の仕組みを理解していくことだったのだろう。インターネットの情報とは、違う情報ソースだね。

 ここ最近、『日記』と『TABIの記事』を、同時並行で毎朝付ける習慣がついて来たのだが、同じ文章を書くということでも、体感が全然違う。

 日記は、まさに今を感じながら書いている。今とは、自身のこの瞬間の体内感覚であり、日記とは、その感覚を言語化して行ってる作業である。いわば、感覚に名前をつけながら文章化していくような、極めて左脳的な行為でありながら、扱っている対象は右脳的な感覚の部分でもあるので、日記を描きながらその左右の架け橋を作る作業をしていくことで、感覚対象として映る、聴く、匂う、味わう、触る、日々の事象の解像度が、論理的にも感覚的にもより増してくる。解像度が上がるとは、より詳細を観察している行為でもあり、より気づいている。より気づいている日常とは、ぼーっとしている毎日より、発見があって楽しいね。世界は、よりキラキラ鮮やかね。発見があればこそ、自身のフィルターを通して再び世界に還元していく多種多様な『表現』も、より世界の不思議を具現化したものになるだろう。日記とは、自身の感覚を使って、情報収取、情報処理のレポート作り作業を行なっているような。インターネットではなくてね。

 まあ、そんなことを楽しんでいる。まあ、そんな効用が、日記にはあるようだ。

* * *

 過去の旅の記憶を書く行為は、考古学の発掘作業のような(やったことないけど)。埋葬された過去の記憶を、デリケートに輪郭線をなぞりながら、浮き上がらせていく。なかなかに緻密な作業であって、もぞもぞする。正直、日記を書いているときのような自由な大胆さを発揮できず、アドレナリンがでない(なので、正直、日記を書いているときの方が楽しい)。なるほど、『アドレナリンが出るか、出ないか』、そこの部分が冒頭に書いた、『日記を書くことと、過去の旅の記事を書くことの、感覚の違い』の部分かもしれない。

 さて、それなら何故、過去の記憶(旅)をわざわざこうして発掘したいとの思いが、こうも強くあるだろう?何故、旅の経験を書くことの意義を、こうも強く感じているのだろうか?(お、これは、今日の日記の発見です。自問自答材料が出て来ました…!)

 ここの部分が、いわゆる『旅の記憶を書く』行為に対する、まだ自身でも顕在意識で認識しきれていない奥のニーズの部分なのだろう。とりあえずのこの問いに対しての現時点での答えは「???????」となっている。ということは、「TABIの記述」はより自分を探り、総体的に知る行為でもあるのかな。

 まあ、そうは言っても、ニーズという言葉に照らして言えば、「貢献」という言葉が確かなところに携えてある。自分の稀有な経験を若い世代に伝えて、貢献したいとの思い。そのことは、これまでも何度も口に出して言ってきた。その通りの気持ちなのだが、どうにも、このニーズの言葉に触れても、自身のこころに響く部分が表層な気がしてきた。もっと奥の部分で響く何かがあるのではないか、と察知するところまで来ているようだ。それは、何か!?と、自問自答のお題が出たこと、これまた発見。これまた、今日の日記を書くことのご褒美だ。日記はいいねぇ。

 さて、続いて、TABIの記事を書こう。本日も、発掘作業を進めます。