8/9 Wed.

大雨・大風・大嵐

 今朝は、台風である。今朝も、台風である。昨日も、雨風凄かった。雨風すごいもので、すっかり窓を締め切る。扇風機を回す。しかし、蒸してくる。嵐もいっとき収まったのでと、窓開ける。気づくと、雨風また吹き込んできて、窓閉めて、扇風機回す。そんなこと、一日中、一晩中。

 眼下の四万十川は、ものすごい濁流になっている。庭には、風に振り落とされた、たくさんの葉や枝が落ちている。こうして、まるで、散髪したように古い枝を落として、森の隙間を作って、循環を促していくのだろう、嵐の役目。ぼくの伸びた髪も、そろそろ散髪したい頃である、さっぱり、循環したい。

 この一週間、中耳炎でうんうん寝込んでいた。炎症で発熱までしてしまった。熱は、何日も続いた。病気で倒れるのは、七月のコロナに続いてだ。やっと体調回復してきて、ようやく通常営業再開と思っての矢先のことで、病の床で、やれやれ、はぁ~あ、と悔しく思った。サーフィンに行って、気分良くして寝た晩のことだった。

 ここ数日で、熱も引いて、こうしてパソコン作業をやろうかな、と思えるぐらいの元気になってきた。しかし、右耳は相変わらずに痛いし、全然聞こえない。八月の末に演奏会をすることになっているので、少し心配だ。それまでに治るかしら。しかし、現時点ではその日に向けて楽器を触ることができない。大きな声を出してのホーメイは、しんどそう。ディジュリドゥ吹くのは、しんどそう。

 しかし、片耳聞こえずに音を鳴らすとはどんなものだろうとの興味もでてきた。いやはや、発症からちょうど一週間経って、そんな好奇心が生まれるほどに、気力回復したようだ。カリンバなら鳴らせるだろう。静かな静かな、精妙な音だったらどうだろうか、今の自分の状態でも気持ちよいだろうか。そんな感じではじめて見たら、いつもの手癖と離れたより静かな演奏で、心地よかった。逆に、いつもの手癖に戻ると、しんどい音もあった。はからずや、台風のごとくに病の嵐に、音の数も、ふるいに掛けられた。

 台風といえば、外でこんなにゴーゴー、ザーザー、ワサワサと雨風樹々を使って音を立てているのに、そんなに、いやまったくに、不快に思っていないではないか(不快に反応している部分は、気圧の変化や、台風の雨風に心配だなと思っているところで、音ではない)。しかし、外でトタンがガタガタいう音とか、家のなかでの調理器のモーターの音とか、タイマーの音とか、人工的な音には不快感を顕著に感じている。まあ、普段からもそんなに好ましく思っていない音たちだが。自然が出す音の心地よさ、耳障りのなさを、不思議に思う。どうしたら、そのようにできようか。まあ、できなくてもいいけど、興味ある。不快な音を取り除いていったら、結果そうなるかもしれないし。いまの右耳の状態は、聞こえないくせに、不快な音はキャッチするようであるからに、よい機会と捉えよう。実際には、右耳は快、不快にかかわらず聞こえていないかも。音を受け取って、その振動に、『不快』とネーミングしているのは、この病み上がりのこの体全体の領域の部分かもしれない。まあ、それも一理あるだろうし、そしたら、耳に届けなくても、体に届ける音、振動というものでよさそうだ。などなど。

 七月のコロナに続き、これだけ、ウィルスの外部からの強制的な力で、普段の動きができない状態が続くと、そりゃ、こころも体も、思考も、いろいろと再構築せざる得ないだろう。その作業に真っ当している、この夏である。あたらしい領域が、そこに、生まれてくるのであろうか。

 そういえば、療養中に、自分でもびっくりするぐらいたくさんの本を読んだ。本の理解度も、いつになく素晴らしかった。言葉が、ぐんぐん染み込んだ。読書が、楽しかった。読書に、癒された。これも、新しい、心身の領域だろうか。音も、文章も、絵も、これからアップデートされるかもね。

 とは言っても、健康一番。日々の行いも、再構築、改める必要あり。気持ち改め、生活改善、よい機会ですね。

 病の嵐に、いまここでないもの、ふるい落とされたなり

嵐止み、ひかり射す

それは、耐えた日々に、いつもより、眩く感じたことよ