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2024年1~3月の2ヶ月間、

久々の海外旅行となった台湾旅行について書いてみたいと思います。

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台湾での旅は、歩いて旅しました。
そして、荷物はUL(ウルトラライトパッキング)という概念を知ってからの、初UL旅への挑戦です。

書く内容としては、

・久々の旅への気持ち(久々の旅ということもあったのか、出発前はとてもドキドキと不安になりました)

・憧れの台湾を歩いて旅して味わった、台湾の感想(特に人との出会い)

・どうして、歩こうと思ったのか(コロナ禍に歩いた四国お遍路の体験が素晴らしかったのです)

・そして、初めてのULの旅への所感(お遍路時の荷物が重かった経験からの比較)

ですかね。

台湾にはずっと旅したいと思っていました。

その理由はどうしてだったかな?

いつから、そんな思いを描いていたのだっけかな?

思い返すと、それは、きっと、東京から高知県の四万十川のほとりへ移住して田舎暮らしをはじめてしばらくたった頃からだったと思います。

田舎暮らしにぼくが求めていたのは、「質素」「古き良き」「自給自足」「吾唯知足」といった具合でしょうか。これらの言葉が内包している「美しさ」を暮らしの中に顕在化させながら、日々を送ってみたいと思ったのです。そして、四万十の暮らしを営む中で、これらの要素が隣国台湾にはまだ多く残っていて(という勝手な期待ですが)、それらを感じてみたい、と思うようになったのです。しかも、自分の暮らしの場が四万十にあり、しばしの暮らしの経験を蓄えたいまだからこそ、日本と自然観の近い人々の暮らしや文化を見ていみたいと思うようになったのです(20代の頃は、より文化の異なる遠方の国、文化ばかりに興味が行っていましたからね。そして、暮らしにはあまり興味ありませんでした)。台湾での旅の見聞が、自分の暮らしに役立つ何かのエッセンスになるのではないかと、そんな思いでした。なので、台湾への旅の憧れは、「台湾の田舎の暮らしを見てみたい」という一言に集約されますでしょうか。

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しかし、そんな台湾への思いもありがらコロナ騒動のおかげで、海の向こうへの旅ができない日々がやってきました。いままでの当たり前と思っていた日常が、日常でなくなったのですね。20代の頃からずっと旅をしていたぼくは(70ヶ国近くもいままでに旅しているのですよ)、海外への旅が日常の一つでしたからね。

しかし、そんな世の変化のおかげで、ぼくはお遍路に出たのです。つまりは、海外に行けなくなった旅の無念さを、国内の旅に昇華したわけですね。

とは、いいましても、お遍路にもずっと行きたいと思っていました。それは、四国への移住を意識し出した10数年前よりお遍路の存在を知っていて、旅好き修行好きのぼくとしては、それは、たまらなく挑戦したい事項の一つでした。

しかしですね、ここでまた「日常」というキーワードがでてきます。「日常」という言葉、なかなかトリッキーですよ。

ずっと四国お遍路に行ってみたかったものの、四万十に住み始めてからは、お遍路の場である四国が自分の暮らしの場、つまりは「日常」になってしまいました。なぜか、人というのは(ぼくだけではないと思うけど)、すぐにできるチャンスがあるものには、「いつか」という器に入れてしまって、手に入れずらい遠くのものばかりにありがたみを感じるものです。「隣の芝生は青く見える」と言った心理状況なのかな?

旅先で出会った地元の方々に、よく、こう言われることがあります。「あなたは、いろいろなところに言って、地元の私たちよりも私たちの国、街のことをよく知っているわね」。この言葉の通りに、なぜか、自分の住んでいる場所というのものは、なかなかに旅の対象にならないようです。それは、日常の日々の営みがあるから、非日常の旅の意識領域へはトリップしずらいということでしょうか。それも納得ですよね、日常のしがらみから一度外れて、リフレッシュしたくて、旅に出るのも一要素ですか。、物理的に遠くに行くのは、有効な手段です。

と、そんな具合に、「お遍路」は近くていつでも手の届く、「いつか」BOXに入れっぱなしで、「日常」のなかに埋もらせていたのでした。

と、と、と、そしたら日常の定義が日常にいながらに崩れ落ちるパンデミックがやってきました。そしたらですね、その「いつか」BOXを開ける時がきて、「そうか、お遍路にいくなら、今だ」と、ついに思い立ちお遍路に出たのが、数年前のことでした。

お遍路道のスタートは、我が家の前としました。四国一周となれば、どこから歩いても一周はできるわけですからね。四国にせっかく住んでいるのですから、我が家から歩きはじめようと。その想いには、このような意図もありました。我が家の玄関前から、つまりは日々の「日常」のレイヤーから、自分の意識がどのようにグラデーションしていきながら、四国の地の風景の中を歩く自分がいるのだろうか、ということに興味があったのです。

例えばこんな具合です。

お遍路さんの白装束の格好をして、杖をついて、おおきなリュックを背負って、いざ、お遍路スタート。家の玄関の扉を閉め、家の前の道を歩けこと数分、あれ、お隣さんと遭遇。

「どうした、そんな格好をして、お遍路に行くのか」

「はい、お遍路に行ってきます」

「えらいな、がんばれよ」

と言った感じに、お隣さんとも、いままでにしたことのない会話が生まれてきます、当たり前ですが・笑。けど、会話の質感もなんだかいままでと違います。なにか、励ませれているあたたかさというのでしょうか。なんだか、この会話のあたたかみの質感の違いだけでも、日々の同じ景色や人々と共にいながらに違うレイヤーに入っていく感じがしました。

お遍路初日、朝一番に「いってきます」と尋ねた先では、「がんばって」とおにぎり🍙を渡してもらいました。お昼になって、道端に座って食べたおにぎりのおいしかったことよ。おにぎりを食べたその場所は、いつも車でビューっと通り過ぎていく場所です。いわば、いつもの生活圏内。日常では、そんな道端に車をわざわざ止めたこともなかったのですが、いまでは、車で通り過ぎる度におにぎりの思い出の場所となっています。おにぎりを握ってくれた人のやさしさも、いまでもそこにあります。なんだか、いままで薄ぺらかった場所に、「物語」という厚みをあたえてくれているようです。面白いですよね、ただ、いつもの移動手段を車から「歩く」に変えただけで、こんなに物語がたくさん生まれるのですから。いつもの自分の立場を、お遍路さんという違った身分、いつもと違った意識領域にドブンッと飛び込めば、日々の景色の中にも、こんな大切な物語が紡げるのですから。慣れ親しんだ日常から、埋もれていた物語たちが立ち上がってきます。

これは、いままでのぼくの旅の人生において大発見でした。旅とは、どこか遠くの異国の地に出会いと発見があると思っていたけど、こんな足元にもたくさんの宝物が埋まっていたと。日々の行いを宝物に変えるのは、自分次第なのだと。そして、目新しくない、慣れ親しんだものの奥にある発見と、出会い直せることの喜び。そして、学び。

ぼくにとっては、お遍路の醍醐味は、人々の暮らしに近いところを歩けたことかな。ぼくは、暮らしを、人々の営みを感じるのが好きなんですね。そういった意味では、大自然の中を何日も歩くようなトレイルや登山にも憧れますけど、人という大自然の中を感じ、歩くという意味では、先人たちから引き継がれてきたお遍路道は、素晴らしいものでした。それも、いつもの車の移動と意識のスピードからは見えなかったものも、お遍路さんの歩きと意識のスピードだからこそ、いつもの景色、いつもの人々と、出会い直せたことがたくさんありました。そして、お遍路さんという身分で、人々の日常をいつもより俯瞰しながらも、その間をすり抜けていった感じがします。その領域には、「旅」の居心地の良さと、「日常」の愛おしさの両方が、共に流れていました。

そう、正直言いますと、お遍路への動機は仏教への信仰心というよりも、ただ歩きたかったのです。山に頂上があれば、登りたい。四国に一周歩くルートがるのなら、歩きたい。そんな、感じですかね。とにも、歩いてこの地を知りたかったのです。いま自分が住んでいる四国の地を、お遍路という風習の風に乗って歩けることにワクワクとしました。

ここで、「歩くこと」に言及しますと、まあ、歩くだけなら、好きに歩いたらいいのですが、それでも、ただ歩くとなると、どこをどれだけ歩いていいのやらと、前に進む推進力たるものを得づらいのが常です。そこで、1200年という歴史をもったお遍路というルートMAPを授けてもらうことで、「四国一周」というゴールを設定できて、歩く活力になるとの思いでした。そして、四国一周となると、数日のことではありません。2ヶ月近くかかるでしょうか。ということは、この歩く日々が日常へとグラデーションしていくような感覚もあるわけです。その意識領域へと入っていきたかったんですね。手のひらの表と裏をパタパタとひるがえすように、「日常」と「旅人」といままで別々の領域だったものが、共生する感覚を味わった先の景色とは。

さらには、今の時間軸での四国を歩いて知るという水平方向の動きに加えて、寺々をお参りし、そこで人々の祈りの姿を目にしながら、お遍路の歴史の深さ、人々の信仰への思いの深さといった、過去と未来への垂直方向でも四国を知りたいという気持ちもありました。そう、いつもの「日常」にいても過去と未来は、今の自分が知らない領域です。と、いいながら、人の意識というのは、今にありながら過去と未来ばかりに浮遊してしまい、今にいないのが常です。お遍路を歩く一歩一歩は、今に繋がるための時間ともなりました。そのような行為を、修行と言いましょうか。しかし、お遍路を思い返してみれば、「楽しかった」との言葉がまず口から一言目にでてきます。どうやら、自分にとってとても楽しい修行だったようです。

ということで、いざ台湾旅行と思った時に、

「なんか、台湾って、四国にサイズも、人々の親切心も(特に根拠はないけど)感じが似てそうね」
「そしたら、お遍路みたいに、歩いて野宿旅できるかな」
「街から田舎へのグラデーションを歩くことができたのなら、より、その土地の人々と文化に触れられるのではないか」

と漠然と思ったわけです。

そう、

「台湾の田舎の暮らしを見てみたい」との思いを、叶える手段として。

「お遍路の楽しかった旅路を、再び!」との思いを、台湾でも実行したく。