冬の夜、四万十、古民家の暮らし、それは静かな時。

夜の幕が辺り一面に降りきった頃、夜の暗さは玄関戸をすり抜け、片足を家に忍び込ませてくる。灯りと暗さとの境界線、それは彼が踏み込んで来た家の中にありありと存在している。しかし、彼はいくらか謙虚なもので、お勝手口で留まっている。ぼくは時に彼を友として迎え入れ、夜を共に過ごし、彼の存在が夜の時間を深くしてくれることに感謝する。しかし、彼が寒さの毛布を身にまといやってきた時、それはなかなかに迎え入れ難い客であり、寒さに空気は張りつめる。張りつめた空間に、静けさの音が木霊する。ぼくはそんなとき、奥の間に暖を取り、紙一枚隔てた障子越しに彼の存在に耳澄ます。

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2016年最後の日も暮れ、その年最後の暗さが家に忍びこんできたその頃、「ジリリン」と黒電話のベルが鳴り、張りつめた静けさの均衡にさざ波が起きる。それは、ぼくに人肌の温もりを感じさせてくれる音、受話器の向こうに毎晩の客とは違う話相手が存在している喜び。

電話口の声は父だった。「オウ、家に居たのか」と大晦日の挨拶をする。そして、「びっくりするなよ」と言うものだから、ぼくはビックリしないように、いろいろなことを零コンマ何秒かの間に考えシュミレーションをする。相手がどんな体勢から襲いかかってきても大丈夫なようにと、しっかりと身構える。

そして、父から告げられたこと、母の死。

しっかり身構えたつもりだが、まさかまさかの予想だにしていなかった角度からの一手に、だるま落としのごとく足下からすくわれ、崩れ落ちる感覚。

父が、母が亡くなった様子を伝えてくれ(温泉での不幸だった)、その言葉の向こうに情景を思い浮かべ、帰らぬ人となった母の無念さを感じたとき、涙が止めどなくこぼれる。受話器を置いた後、声にならぬ声が静寂の空間に響く。

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 元旦、まさに飛んで東京に帰り、目を閉じた母の姿と対面する。ぼくは、正直そのとき、とてもホッとしたのだ。いつもと同じ様子の母の姿がそこにあったから。もう遠くに行ってしまったと思っていた母をそこに感じられたから。「あ、なんだ、ここにいるじゃん」と言葉が漏れる。

式までには一週間程の時間があった。棺の窓越しに覗き込む母の姿は、少しづつ、少しづつ、変化していった。その姿に、死の事実を日を増すごとに感じずにはいられなかった。母の愛して止まなかった柴犬のキョンは、亡くなって遺体が家に帰ってきたその日は、ずっとクンクンと臭いを嗅ぎ、母から離れようとしなかったらしい。しかし、日が経つにつれ、そんな様子は見せなくなった。動物の本能として、魂が離れた亡骸には、もう、大好きだった母の存在を感じることは出来ないからからなのだろうか、そうキョンに言葉に出して聞いてみたかった。

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正月三が日を過ぎてから送った訃報と葬儀の日程をお伝えしたメールの返信には、数々の母との思い出が綴られていた。兄とぼく、子供達が知ることのなかった母の様子を感じられるのは、とてもおおきな喜びであった。

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2日間に渡る式では、沢山の方々からの献花が添えられ、本当に大勢の友人たちに囲まれ、いつも賑やかで人が集まる場を創るのが大好きだった母に相応しい式となった。

ぼくの友人たちも大勢参列してくれた。気心知れた友人たちの姿に、こわばったぼくのこころが少しほぐれる。いや、ぼくの友人というよりも、母の友人でもあった人たちだ。母は息子の友人だって構わず、いつも一緒に楽しいことをやろうという人だった。若い世代の意欲をサポートし、チャンスを与えてくれようという人だった。世代を超え、本当に多くの友人を持っている人だった、そんな母の人柄を式に参列してくれた人々から感じることが出来た。

式には、兄が生前の母の写真をパネルに大きく伸ばして、何枚も何枚も、母の歴史を追うように、会場に並べてくれた。(兄は、式の前日に実家から写真をピックアップし、翌日にこれが飾られていたものだから、兄の仕事ぶりに感嘆した。ここ数年は、いつも家族の和んだ場でしか知らなかった兄であるが、頼もしい兄を感じる機会となった。兄は実に見事に毅然と喪主の役割を家族を代表してこなしてくれた。)飾られたパネルたち、そこには、母が小さな頃の家族の集合写真から(ここに写っている祖父の姿にぼくがよく似ていると言ってくれた人が何人かいた、フレームに納められた祖父の姿は今のぼくと同じ年ぐらいだろか)、母が高校の代わりに選んだ移動学校で世界を廻った時、アメリカの短期大学への留学の頃、フランスの航空会社でエア・アテンダトとして働いている姿、パリに住み父と出会い結婚し兄が生まれお揃いのボーダーのセーターを着て家族3人でエッフェッル塔の見えるアパートのベランダで取った写真、そして、ぼくがお腹にでき家族は日本へ帰国した。そこから並べられた写真は、ぼくの記憶にも残っている母の姿であった。母の若かれし頃の姿はとても奇麗だった、いまさらながらに、親子の関係なく客観的にそう思ったのである。

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告別式では、はじめに祖母が別れの言葉を告げた。短くも強く鮮烈な、娘への別れの言葉だった。(あとから、「おばあちゃん、何て言ったかもう一度教えて」と尋ねても、本人はまったく覚えていないと返事がきた。)

続いて、ぼくが別れの言葉を告げた。別れの前に、母と清算しておきたいこと、ちゃんと伝えておきたかったことが幾つかあった。それを、この場で言葉にして伝えた。◎「パパ、ママ」と呼ぶのが子供として嫌だったこと。それは、お友達の前で恥ずかしかったから。けど、ぼくたちにとってはママはママだし、お母さんじゃない。ママが死んでしまって、本当に辛い。◎いつも、夏休みや春休みの度に、林間学校にいかされ、サッカーの大会を休まなければ行けなかったのが嫌だったこと。しまいには、まるまる一年の山村留学に行ってこいと言われ、無理矢理いかされ、さらには、兄は一年で東京に帰ってきたところを、「お前は、もう一年行け」と言われ、絶望したこと。それから大きくなってからもずっと、「もう一年行け」と言われる夢を見ていたこと。しかし、30歳をすぎたころからその夢を見なくなったこと。それは、子を思う親の気持ちを少しは理解できるようになったこと。そして、あの幼き頃に都会の生活ばかりでなく、山々を駆け抜ける日々を過ごせたことの意味の大きさに対する感謝の気持ちが芽生えたこと。それは、あの時の経験が血となり肉となって今の自分にとって役に立っていることを、実感していること。◎二十歳のころに両親が離婚して、ぼくたちはとても傷ついたこと。そのことを許してもらいたいという気持ちを母がずっと胸に抱えていたのを感じていたこと。その後、母が連れ添ったパートナーと幸せに暮らしている様子を感じられるのが、ぼくにとってとても嬉しかったこと。その人と一緒にいると、母はとても輝いていた。

母を許したかったし、母に許してもらいたかった。ぼくはこれからも生きて行くために、残された家族知人友人たちの前で、言葉にして別れの前に告げる必要があった。

最後に、孫(兄の長女)が別れの言葉を告げた(これは、予定外のことで、その小さな彼女の意思に、こころの奥に確かな意味のある驚きを感じた)。この一週間、いつもと変わらず無邪気に振る舞う幼き彼女の存在は、ぼくたち家族の悲しみを和らげてくれていた。多分、「死」を感じ理解するのには、もう少し年を重ねる必要があるのだろうと思っていた。手紙を両手に、母の棺の前に立つ小さな彼女の背中は大きく震えていた。食いしばり、震える声、手紙を読む声が思うように出てこない。小さな女の子が「死」を感じ取った瞬間だった。それでも、彼女は大勢の人たちの前で、しっかりとおばあちゃんへのお別れの手紙を読み上げた。

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火葬場。形に執着しても意味がないとわかっているつもりでも、消え去るものへの別れに、胸が締め付けられ、涙が出る。

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怒濤の一週間を終え、式を無事終えたことに幾ばくかの安堵感を感じながら、家族揃って母が生前過ごした家に帰ってきた。棺があった場所に、骨壺がコツリと置かれた。昼下がりの日だまりに一服し、家族はそれぞれの家に帰って行った。別れ際に、おばあちゃんは、おじいちゃんも写った母が若い頃の家族写真のパネルが欲しいと言った。父は、パリのアパートでみんなでボーダーのセーターを着た写真を持って帰った。ぼくは、父がその写真を欲しいと言ってくれて、とても嬉しかった。

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「母の死をもって、そこから気づきを得て、学び、さらなる心持ちでこれから生きて行きたい」と、まとめたいところだが、正直、まだ、実感がもてないというのが本音である。

今までと何も変わらないといったら何も変わっていないし、全てが変わってしまったといったら全てが変わってしまった。

今日、祖母に電話をした。電話口のおばあちゃんは、元気がなかった。いつもニコニコしているおばあちゃんが、あんなに弱々しい声をだすのをはじめて聞いた。おばあちゃんは娘の死を知ってから「もう泣くだけ泣いて、涙も涸れた」といって、葬式ではいつもの笑顔を見せてくれていた。それで、ぼくも安心していた。しかし、電話口のおばあちゃんは「時間がたったら、悲しみが増した」と言っていた。

おばあちゃんの話を聞きながら「死」とはそういうものだと思った。これからも、あとから、あとから、押し寄せてくる感情に圧倒されることがあるだろう。しかし、そんな時こそが、母を近くに感じられる時、あの温かさを感じられる。そのことを、嬉しく思いたい。

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ぼくが今滞在している母の家はとても暖かい、夜には薪ストーブに火が点る。そして、今このとき、ぼくが不在の四万十の家にも、夜が来ていることを思う。思うことで、遠く離れたあの空間も、ここに存在している。思うことで、存在していくものがある。

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散文ではありますが、ここに、母・佐々裕子(享年66歳)の死を、お伝えさせていただきます。

2017.1.15 佐々琢哉