*  畑の禅問答  *

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満月

前回の満月から始まったこのBlOGの日記だが、途切れることなく新しい満月を迎えられたことが、嬉しい。

この一ヶ月を思い返してみると、川泳ぎも、note への旅の執筆、絵も、習慣化されて、続いている。

「習慣の威力」は確かなもので、それぞれの項目ごとに、確かな進歩を感じられる。

日々の小さな達成が、一ヶ月分積み重なって、確かな自信になっている。

次の満月の自分を思うと、どんな自分がそこにいるか、とても楽しみだ。

未来へ続く楽しみを連想できるときは、よい流れの中にいる時だ。

 上半身裸、短パン一丁の夏の装いから、

長袖長ズボンの畑のコスチュームの着替えて、「よしやるぞ」と息込んでいたら、突然に雨が降ってきた。

(以前の日記に、家のことを「第二の皮膚」と表現していたのに気づいたのだが、第三の皮膚と書かなかったのは、服を纏わない短パン一丁生活のためだろう。)

なかなかに、強い雨だったので、今朝の「畑・野良仕事」日課は飛ばすことにして、コーヒーを淹れて、デスクへ向かうことにした。今朝は、秋冬野菜の苗の定植をしようと、昨晩からストチュウ水に苗を浸けて準備しておいたのだが、「やらなければいけない」と思っていたことが、突然の不可抗力によって延期されたことに、「先延ばしの開放感」を味わっている。なんだか、学生時代の突然に休講になった時の、嬉しな気持ちを思い出す。

パソコンを開き、メールの返信をしていたら、お日様が差して込んできた。この空模様を見る限りに、今日の午前はこのまま、降ったり止んだりが続きそうだ。しばし、このままソファーにうずくまっていたいような気持ちで躊躇していたのだが、「やってしまった方が、さらに気持ちいいよ!よし、やるか」とデスクから腰をあげ、腰袋を着けけて、鎌とハンド・シャベルをそこに差し込む。

いつだって、手を動かすまでは、グニャグニャを言い訳しているのだが、一旦、手を動かし始めると速いのなんの。

一時間程度で、「やりたいと思っていたこと+α 」のことができた。

「やらなきゃ」が朝一番で済んだので、この後の創造的な行為の日課の時間を、存分に楽しめよう。

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ここ数年のことだが、畑・野良仕事をしているときの自分の思考パターンというものに、気づく。

ぼくは、手を動かしている間に、頭の中では過去のことを、ひたすらに思い出している。

それは、以前に人に言われたことなど、大きく括れば、ネガティブな過去の経験だ。

そして、それを、いっ時思い返した後には、自分を肯定するための、あれやこれやの勝手な物語が続いてくる。

この思考パターンは、特に畑・野良仕事の時に顕著に起こっているので、これは、自然の持つ浄化作用なのかもしれないと、考察しているところだ。「自分の暮らしにとって、畑は清らかなもの」と定義すると、この作用は、仏陀が説いた、瞑想による浄化の過程とよく似ている。瞑想によって得られるこころの澄んだ状態において、こころの奥底に溜め込まれていたこころの汚濁(サンカーラ)は揺すぶられ、表面上に浮き上がり、やがて消えていくという作用だ。

畑仕事をしている間は、あれやこれや考えてしまっているのだが、畑仕事が終わると、とてもスッキリとした気持ちになるのは、そのためかもしれない。

畑からの学び、もう一つ。

毎日、少しづつでもやっていると、鎌の手刈りでも十分いける。

今日も、畝の脇に腰を下ろして、草刈りをしていたら、大豆に鞘が付いている様子を発見して嬉しかった。

これも、今までのぼくの思考パターンなのだが、ぼくは、やらなきゃいけないことを後延ばし、後延ばしにして、もうこれ以上後延ばしにできないというところになって、ワーッとまとめてやるタイプの人間のようだ。

例えば、草刈りだったら、草刈機でワーッ草を刈るように。

もちろん草刈機の恩恵を受けているところは有り余るほどで、裏山などは手刈りではやりたくない。

草刈機を使った草刈りでも、長いこと留守にした後では、いつものヒモでは太刀打ちできず、チップソーに刃を付け替えなければいけない。時間も倍以上にかかる。

手刈り、草刈機、それぞれに、一長一短があるのだが、今朝は手刈りのおかげで大豆の鞘に出会えたことが嬉しかった。けど、作業自体は、畝を何個かやっただけで終わった。草刈り機だったら、同じ時間で、家の周りをぐるりと刈れただろうに。

畝と畑全体、裏山/手鎌と草刈機、

これらを比較すると、それは、ローカリズムとグローバリズム、産業化の雛形が、自分の暮らしの中にもある。

どの加減が、心地よいだろうか。

どの様に、向き合っていこうか。

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畑の成果を見るに、

数日おいて、わーっとやるより、少しの時間でも毎日やる方が、

総量としてかけている時間が同じでも、成果は、毎日少しづつの方が出ている気がする。

 * * * * *

・[

【習慣における、ぼくが参考にした文献: Tiny Habit by BJ Foog at TED Talk 】

(要約:目標に取り組む時、大きな目標を、小さな目標に噛み砕いてスケールダウンしていって、小さなことをコツコツやった方が、より達成感の報酬を得られやすく、より自信につながり、より継続のモチベーションとなって、結果、より大きな成果が得られる。例えば、30回の腕立て伏せをやっとの思いで一日こなして、次の日は、その大変さに躊躇し、その後全くやらなくなってしまうよりも、一日一回でもやれば、何かしらの成果が得られる。一日一回なら、実行の意志決定力はほとんどいらない。初めから一回とハードルを低く設定していれば、一回でも設定をクリアしたことに満足感が生まれる(逆に始めが30回という設定で、一回しかできなかったら、自分に無力さが生まれる結果となる)。継続していると、そのうち、「一回だけじゃ物足りないし、もう一回やろうかな」となり、そのうちに30回できる様になる。これがTiny Habit (小さな習慣)。習慣を研究している、スタンフォード大学の先生のお話です。)

(*ぼくが、毎日このBlogでひたすら綴っている理由のネタばらし。それは、本やインターネットなどで情報として学んだことを、自分の日常の行為の中で試し、その結果から得られる気付きを、人に伝えられる形として文字に綴ってアウトプットすることで、自分自身の復習と、実戦レベルでの定着化を目指している。日記が、ぼくの毎日のTiny Habit。)

* * * *

お話、畑に戻って、

大豆の脇の雑草を、手で刈って、畝に積んでいると、前回の草刈りの分のマルチが分解されている様子を目にして、「あぁ、こうして、循環して肥やしになっていくのだな」と、納得する。

納得すると、「えい、この野郎」と思っていた地面にへばりついていた雑草たちも、「君たちのおかげで、土が育まれ、美味しい野菜をいただくことができる」と、ありがたい気持ちになる。

すると、この畑作業中に想起してくる、ネガティブな思考も、雑草と同じ様に、刈り取って適切な場所に配置してあげれば、それは、これからの自分にとって良い肥やしになっていくのだろうなと、思えた。

産毛が光る大豆の鞘を見て、これからその鞘がどんどんと丸く太っていく様子を思い浮かべ嬉しくなる。

未来へ続く楽しみを連想できるときは、よい流れの中にいる時だ。

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朝一番には、「今日に日記には何を書こうもうのか」とネタ探しに困っていたのだが、

畑仕事一時間をしたら、もう、書ききれないほどの題材の収穫となった。

この一ヶ月の日記を見返してみても、やはり、朝の畑・野良仕事の時間に、深い洞察を得ている。

面白いものだ。

まるで、畑の時間は、禅問答の教えを受けている気分だ。

これだけ、畑・野良仕事で、深い洞察・気づきが得られるという事実は、

ぼくが思うタイプの賢人たちが、こうした農村地に多く居を構えているということに通じていようか。

それは、聖者が奥深い山に籠っているということに、繋がっていようか。

確かに土を思えば、その中には、もう数限りない情報に、満ちてている。

幼虫、ミミズ、菌糸類、微生物、微粒原子・・・・

畑、野良に立つということは、この膨大な情報にアクセスするということかもしれない。

それゆえの、多くの気付き。

そして、これはもう、科学的に証明されていることだが、

こうした土の構成物による働きによって、人体の健康にも良い影響があると言われている。

自分自身も、それを実感している。

(より、土に触れていたいと、素手で作業をすると、草や毛虫に負けてカブれてしまうのが、悩ましいところ。)

一つの作物の収穫というよりも、畑全体の総体制から得られる恩恵のために、畑仕事をしているのだと思う。

(野菜の収穫が少なくても、凝りずに続けられている、モチベーションはここですね。けど、やっぱり、収穫高も上げたい!)

しかし、正直、この土の効用を、実感はしているが、理解はしていない。

ここに書き綴り、他者に伝えられるほどには、理解していない。

これが、現在、ぼくが、畑の寺小屋で与えられている命題です。

「土の理解と、野菜の実りは同じだよ」

ぼくの、こころのぼやきを見透かした、

畑の老師の言葉である。

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