*:::::学び方を学ぶ::::*

今朝の一仕事の時間には、

「台風が来くる前に」と、とににかくはめ込んでビスで仮止めしていた、作業途中の窓を外し、蝶番をつける作業をした。

ある作業をするとき、いつも、はじめに思っていたより、倍の時間はかかる。この窓枠作業も、台風が来る前に終わらせるつもりで始めたのに、結局終わらなかった・・・。そして、「あと、もう少しで終わりだ」と思ってからが長いのである。段取りよくできるようになりたいものです。

 今日の作業も、「蝶番を打ち付けるだけ」と思って始めたものの、一つの工程ごとに、いろいろな取り合いが出てきて、その度に調整が必要で、思っていた倍以上の作業時間がかかった。

 窓をはめ込むために、脚立に乗って梁を上からはじめてまじまじと眺めたのだが、昔の鋸の跡が残っていて、その風合いの美しさにドキッとした。大工仕事をしていると、家の各所に残された、このような瞬間に出会う。その場所に自分の手を入れるときは、なんだか古人の美しい仕事を汚してしまっているようで、申し訳ない気持ちだ。それと同時に、どうやってこんな美しい仕事ができるのだろうと、学びたい気持ちだ。

蝶番にビスを打ち、なんとか、窓の設置が終わった。

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最後に、剪定した椿の枝を使って、取手を付けた。椿の枝は、お気に入りにの素材で、いろいろなところで活躍してくれている。椿の枝の存在を知ったのも、この家に先人が残していった、遺物からの学びだ。この家に越してきた時のことを思い返すのだが、お勝手の外にはたくさんの薪が、積まれていたままになっていた。こんなにもたくさんの薪を集めるのは、さぞかし大変な仕事だっただろうに。家主たちは、この薪を使わぬままに、ここを離れてしまったのだ。積み上がった薪の一角に、細く艶やかな枝ばかりが積まれているのを見つけた。明らかに、この種類の枝だけが、選別されて置いてある。なんのためなのだろうか。

 その答えを得られたのは、それからしばらくして、家の別の場所で、それと同じ枝を見つけた時だった。その枝は、先端を鋭利に切られていた。「そうか、先代の方々は、これを杭に使っていたのだろう」と、気づく。確かに、細くて、硬くて、ある程度しなりもする、杭に最適だ。それからというもの、ぼくは、先人が残してくれたこの遺産を、ありがたく、畑の資材などに使わせてもらっていた。

 そのうちに、その遺産は残りわずかとなり、惜しい思いをしているところに、その枝がなんの樹なのか見つけることができた。それは、庭木の剪定をしている時で、一株の椿の木の前に立ち、右手に鋸を持ち、左手で枝に手をかけた時、その掌から伝わる感覚が、あの薪に一角に置かれた枝たちと同じだったのだ。

 生木に鋸を入れる瞬間、そこには、少なからずの抵抗を覚える。それが、庭木のような自分にとってキャラクターを持ってしまった存在だったら、尚更だ。しかし、こうして、その枝たちを、形を変えて暮らしの中で活かせるのは、何か救われたような気持ちになる。そして、創造のしがいがある。あの積まれていた椿の枝も、先人たちが、庭仕事の行為から集めたものだったのだろうか。

ここには、たくさんの学ぶべき、教科書が残されている。


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窓が出来上がって、嬉しい。

また一つ、頭の中のアイデアが、暮らしの形となった。

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仕事を終えて、時計を見ると、12時を指そうとしていた。

いつもの習慣で、一仕事の終わりには、川に泳ぎに行きたいとの衝動が起きたのだが、眼下に流れる川の様子は穏やかではない。台風の影響で、白濁とし、激しさを増している。どうして、大雨の後には、このような青色となるのだろうか。

今日ばかりは、やめておこうかと思うものの、その衝動は抑えられず、「足をつけるだけでも」と、川へ向かった。その衝動とは、この後の執筆の時間、創作への衝動も含まれているのだと思う。ここで一度川に身を晒しておくのと、おかないのでは、まったくもって、創作の鮮度が違ってくるのだ。川泳ぎは、この後に続く日課のためでもある。

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朝からずっと曇る空の下を歩き、川底に辿り着くと、正午の鐘が鳴り、パラパラと雨が降ってきた。

ゴーグルをつけて、全身ジャブんと水に浸かる。

ゴーグルの先は、真っ白に濁っていた。

長袖が当たり前となった外気と同じく、水温も冷たかった。

いつまで、この川泳ぎの日課が続けられるだろうと、寂しく思った。

家に戻ってきて、いつもより遅いコーヒーを淹れる。

台所の窓のカウンター越しには、四万十川が相変わらずに、白濁と青い流れを響かせている。

ゴーグルの先に見た、水面の青さの下の、、水中の白さを思い出す。

川の色の不思議の答え探しの、一つの素材となるだろうか。

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お勝手口から一歩外に出ると、ハスと、布袋葵の花が水盆に咲いている。

そういえば、お昼も過ぎているのに、ハスの花が開いているのは、今までにないことだ。

ヘチマの花も、同じくに、まだ開いている。

夏の盛りに朝一番に花開き、正午も前には蕾を閉じる、ハスとヘチマの花のことを、随分とお気楽なことだなと、愛でていただけに、今日の様子には驚きである。

曇り空と、外気温の影響だろうか。つまりは、今までだったら、日光をお腹いっぱいに浴びたら、満足してお昼寝をしていたのに、今日は曇り空で、日光成績不十分で、残業中なのだろう。太陽いっぱい浴びた分だけ、早くぐっすり寝るなんて、夏休みの小学生の子供たちと一緒だね。

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まるで、観音菩薩の後光のような、布袋葵のその模様には、いつもハッとさせられ、手を合わせたいような気持ちになる。

どうして、この様な色彩が生まれようものか。

ひたすらに、魅入ってしまう。

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『そうか、まさに、今のぼくの様に、見る者を惹きつけるためか』

『こうして、虫を誘惑して、受粉を促しているのかもしれない!』

『ぼくが、これだけ惹きつけられているのが、その確かな証拠ではないか!』

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との、仮説が頭を巡る。

ここで、その答えを、人差し指一つで、ピピピッと検索することもできよう。

しかし、ぼくのアナログ思考のOSは、良くも悪くも、そこまでアップロードされていない。

「科学的な原理は知らなくても、そのことが起こっている事実を承知している」

ということで満足している。

唯一無二の答えの世界に入っていかずに、質問が宙に浮かんだままの空間に留まっていると、さらなる興味を抱き続けることができる。

布袋葵の光る黄色に惹きつけられ、知らぬ間に受粉の手伝いをしていた「虫」の目線のままに、野原を巡ることができるかもしれない。

指先のピピピッのヴァーチャルへの検索の代わりの、虫のアンテナのピピピッの検索で、新しい世界に出会えるかもしれない。

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コーヒーを片手に、デスクへ向かうと、縁側の窓の向こうの川から、「カン・カン」と、聞きなれぬ硬い音が響いてきた。

谷に、音はよく響く。

縁側に立ち、四万十川を見下ろすと、同じ集落の川漁師のおっちゃんが、仕掛けをかけていた。

「川も、もうそろそろ、終わりか」と、嘆いていたぼくのこころに、

おっちゃんの、その姿が、頼もしかった。

ここで生まれ育った、あのおっちゃんは、どれだけ、川のこと、山のことを知っているのだろう。

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