*** 感覚ひらく ***

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***移住一年目の日記より***

今まで何度と京都に来ていますが、今回ほど京都を美しいと感じたことはありませんでした。歴史の美をありありと感じたのです。強いて言えば、いままでの自分は、それを感じることがありませんでた。

滞在先のすぐ裏には、銀閣寺に法然院と山際にお寺がずらりと並んでいました。朝の散歩に哲学の道をしばし蛇行して、山へ、朝の静けへ。山際を歩いていると、その奥にさらなる静けさを讃えている門と出会いました。導かれ、門をくぐると、そこにあるは、自然と共存する建築美。古き人、自然に対する感覚の鋭さに、静かに頷きました。

 さて、どうして今の自分がこうも、歴史あるものたちにここまで感動をすることが出来ているのだろうと、哲学の道を歩き自己を考察をしてみる。それは、古き人たちが考え、形にしたことに共感しているからであろう。さらに言うと、同じ感覚を使って物事をみているのではないか、感じているのではないか。

散歩からの帰り道、哲学の道、水路の浅い流れ、腹をすらんばかりに泳ぐ大きな鯉二匹。

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さて、どうしてこのようなことが、今の自分のおこっているのだろうかと、梅雨の雨したたる龍安寺石庭、縁側に腰掛け考える、朝8時。思うところ、四万十川での新しい生活がこの感覚をひらいているのではないか。雄大な自然が大きな起因であることはもちろんではあるが、もう一つの感覚を開く装置は、家である。質素な古民家での暮らし、つまりは生活様式が、ぼくの中の眠っていた日本人のDNAをひらいているのではないかと思う。古くて新しい暮らし。

朝8時30分。

修学旅行生の訪れに、雨音と静寂の石庭は去っていく。

中学生3年生の彼らの庭に対する一挙手一投足が、

過去の自分であり、今の自分がここにいて、未来の自分を雨空に掴む。

枯山水、瞑想の庭。

日本人であることを誇りに思う。


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『吾唯足知ーワレタダタルヲシル』

『I learn only to be contented.』