4月18日(月)・晴れ

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 裏山の大きな椎の木の下に置いたミツバチの巣箱に、蜂たちが一匹また一匹と飛来し、小さな入口から出たり入ったりしている様子を見つけた。喜び、ドキドキしながら、ぼくは、駆け寄っていった。

 そんな、夢を見たのだったと思い出し、「これは正夢に違いない」と思いながら巣箱をこっそり覗くように見に行ったが、昨日と変わらずシーーンとした巣箱がそこに佇んでいた。ウキウキとした鼓動を届ける先がなくなり、虚しくなるも、まあ、慣れたものさ。恋焦がれてもう何年か、蜂さんへの想いは一向に成就しないのです。

 と、浸っていると、辺りからは植物たちの賑わいが、朝の動きと共に静かに始まっている。そのリズムに合わせて、裏山、畑を散歩する。これまた、春の覗き見をするの楽しみのひとつで、種まきした野菜たちんが芽吹き出していないかと畝々を訪問する。畑の畝には、まだ芽吹きを見つけられなかったのだが、それより数日前に撒いたポットには、たくさんの新芽たちが出ていた。撒いたはずのない隣のポットの列にも、他の野菜の新芽が生えている様子に、種がはじけて転げ出した様を思い、微笑ましくなる。こうして、植物たちはテリトリーを広げて繁殖していくのだろうか。それは、健気なようでもある。自分で撒いた種だけに愛おしく、まるで元気な赤ちゃんが有り余る生命を、世界に発しているようである。

 畑には、新芽を見つける代わりに、もぐらの往来の跡をところかしこに見つける。モグラも、活発になって来たようだ。もう随分と畑では、もぐらに悩まされている。畑には、もぐらの地下都市が形成されているようだ。調子よく育っていた野菜が、ある時、ぱたりと、成長を止めてしまうことがある。モグラが野菜の下をお散歩していったのだろう。野菜の根っこは可哀想に、地中に生まれた虚空に根を張れずに耐え忍んでいるのだろう。モグラの往来を交通規制したいものだが、どうしたものか。

 蜂に、植物に、モグラに、朝の戸を開けた向こうには、さまざまな命がざわめいている。春から初夏の、大きな流れに乗った舟の物語が始まっている。今日一日も、そこにどんな物語を付け足そうか。さて、畑仕事の段取りをする。

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 誰かの植物への思いを聞くと、豊かな気持ちになる。

 昨日、山から車を2時間走らせて、高知市まで出た。車検や歯医者や、用事をあれこれ済ませた後に、久しぶりに知り合い方のギャラリーに顔を出した。そしたら、懐かしい顔馴染みの方々がちょうどその場に居合わせていて、ぼくの訪問を大層に喜んでくれた。その御家族は、ぼくが高知に移住する前からお世話になっている人たちで、「ぼくも移住して10年なんですよ」と、当時からの懐かし話をたくさんした。

 「せっかくだから、夕ご飯を食べに行きましょう」と誘ってくれて、お父さまもわざわざ出て来てくれて、みんなでご飯を食べに行った。出発するのに、お父さまの車一台にみんなで乗り込むと、その感じが、なんだか、東京の実家のお父さんの運転する車に乗せてもらう感じとそっくりの懐かしい体感となり、この瞬間、高知のこのご家族からとても暖かなものをもらっている気持ちとなった。それは、楽しい晩餐となった。

 帰りの車のなかで、「お店に生けてあったお花はなんですか?はじめて見ました。お庭にも生えていましたよね」と質問すると、「お茶で使う花で、八角連というのよ」と、お母様が教えてくれた。茶席でその花を初めて見て、とても感動したこと。京都の花屋から株を取り寄せ、庭に植えたこと。お店の庭の条件によくあったようで、株がよく増えて、お客さまにもずいぶんとお分けしたこと。などなどと、花にまつわるお話しをたくさんしてくれた。「ごめんなさいね、活けてある花はもう少し小さい葉っぱといっしょの方が、映えたでしょうね」との言葉に、その花の気持ちも掬って、そこに生けてある感じがした。こうした、いろいろなこころ遣いの広さが、あのお店のここちよい広がりであり、こういうことなのなのかと思った。

 誰かの植物への思いをお話で聞くことは、なんとも言えない心地よさである。昨晩のお話しのおかげで、今朝もその心地よさが残っており、我が家に咲く草木の花々とも、より朗らかに朝の挨拶をしたものだった。目に付くあれもこれも、この10年でせっせと自分で植えた植物たち。それが、こうして花を咲かせてくれて嬉しいものだ。ありがたいものだ。ありがとうね。そんな気持ちになれたのも、誰かの思いをお話に聞かせて分けてもらったから。

お話しっていいね。
お花っていいね。
お花し。