あの日の、『TABIのお話会』を綴る 

その

 はい、お話をはじめます。

 ぼくは東京で生まれて育ちました。両親はフランスのパリで出会ってみたいです。母は、エールフランスのエア・アテンダントで、父は日本の会社のパリ支店に派遣されていたみたいです。二人はパリで街角で出会って、とお話しだけ聞くとなんてロマンチックなんでしょうね、ぼくの両親は・笑。二人は程なく結婚して、兄が産まれました。そして、お腹にぼくができたときに、家族で日本に引き上げてくることにしたいみたいです。

 ぼくが産まれたのは、母方の祖父母の家の近く、練馬区の産婦人科の病院です。だから、お兄ちゃんがパリで生まれたのが、すごくかっこいいなと思っていたから、ぼくは「Made in Paris で、Born in  NERIMAだよ」とよく言っています。

 お兄ちゃんの真似っこをしてサッカーを始めてからは、小中高って本当にサッカー少年でした。サッカーをひたすらにやっていて、本当はプロサッカー選手になりたいと思ってずっとやっていたのだけど、高校の途中ぐらいから、ちょっとプロになれないなっていうのをだんだん感じてきて、その道は諦めてしまったんですね。
 

 サッカーっていう目指していたものがなくなったタイミングで、大学受験となっていくのですけど、建築学科を受けることにしました。母が、「建築面白いよ」と進めてくれたんですね。母は、スチュワーデスを辞めた後に日本に帰って来て子育てをしながら勉強をして、インテリアコーディネーターとして仕事をしていました。ぼく自身も、美術や図工のものを作ることが好きだったし、文系というよりも数学が好きでしたし。

  それで、実際、建築家とはどんな仕事だろうかと、本屋さんに行って写真集を漁って見てみました。当時だったら、やっぱり安藤忠雄とかの作品集を見たらすごく格好良くて、「これだ!」と思って、建築学科を受けることにしました。

 ぼくが通っていた高校は、都立でも一、二番に頭の良い学校で、周りのみんなはすんなりと良い大学入っていくのですけど、ぼくは浪人しました。小さな頃からお兄ちゃんの真似をしてたのもあってか、どこか、兄と同じく一浪しても大丈夫だ、との思いもあったからでしょう。兄も、地元の中学校までは頭がいいって言われてて、生徒会も頑張るようなタイプだったけど、私立のマンモス進学高校に入ったら、どうやら学業で苦戦している様子を見ていたんですね。どっちらかというと、高校の中では、あまり成績のよくないグループに入っちゃっているのを見てたから、僕も高校に入ったら頭が良くなくていいんだっていうのが、あったみたいです。そして、中学までは成績優秀、高校ではそこそこといった、その通りの立ち振る舞いで過ごしていました。

 大学受験となっても、兄も一浪してたから、一浪までOKなんだという気持ちの通りにぼくも一浪して。でも、兄は一浪の後、見事に有名私立大学に受かったわけです。なので、ぼくもこの浪人時代は、必死に勉強しました。しかし、どうしたことか、結果は描いていたシナリオ通りにはいきませんでした。とても無惨な思いだったけど、もう二浪もする必要もないと思って、受かった大学の中から選んで行くことにしました。ぼくの高校のレベルからしたら、「その大学に入るの!?」みたいな、こっちも引け目を感じるぐらいの。なんなんでしょうね、この謎の引け目は、、、。
  

 そこが人生の初めての挫折というか、それまで本当にサッカーばっかりやっていて楽しかったし、高校生ぐらいからはすごいファッションも大好きで、そういうのもすごい楽しかったし、そんな過不足なく満ち足りた日々を送っていたのだけど、浪人して初めて人生が一回ストップしたような感じになったときに、「あれ、自分はこれからどうやって生きていくんだろう」って、不安が出て来たのです。いま振り返ってみると、その時間がとてもよかったというか、はじめて自分自身で自分の人生を考え始めた時間だったのです。大学受験のその時まで、言わば、決められたルートのまま来て、何も考えていなかったわけですよ。
  

 浪人時代は、やっぱり周りのみんなからの置いてきぼり感に、精神的にきつかったですし、なんか大学生になった男友達は「コンパ、コンパ」言っているしね。しかし、「この一年は楽しんではいけないんだ。勉強だ、」勉強」とのストッパーがあって、宙ぶらりの状態で。そんな一年を終えて、いざ大学に入ってはみたものの、いままでのサッカーに注ぎ込んでいた情熱のやり場に困って悶々としているような毎日でした。そう、念願の建築学科に入って見たものの、いざ蓋を開けて、勉強しはじめてみると、建築にそこまで情熱を向ける楽しさを見つけられなかったんですね。

 大学は、なんとなくで通っていました。この歳になって、自分でお金を稼ぐようになると、本当に親に申し訳ないですね、あんな大金を学業に払ってもらっていたのに、なんとなくでしか勉強していなかったなんて。自分が親だったら、そんな子供には、それは大層説教をしてしまいそうです。

 大学時代は学業よりも、下校時にバイクに乗って、原宿、渋谷、代官山などで、大好きなファッションチェックで洋服屋さんなや、映画を見たりよくしていましたね。それでも、やっぱりデザインは好きだったから、気になる建物を見に行ったりもしてました。何か、必死に探していたんでしょうね。

 大学生って夏休みと春休みにそれぞれ、2ヶ月も休みがある、すばらしい身分なのです。それで、大学一年生のはじめての夏休みは、青春18切符を買って、初めての一人旅をしました。一応、建築学生らしく、あ、まだ一年生でそれなりにやる気に満ちていたのかな、「そうだ、安藤忠雄の作品を見て回ろう」と思って、当時は彼の作品は西日本がほとんどでしたから、夜行列車に乗って、大阪、京都、兵庫、岡山、そして広島の原爆ドームまで、駅前や公園のベンチで寝袋を広げて野宿しながら、10日間ほどの一人旅をしました。旅から帰って来て、父に野宿などして旅をしてきた話をしたら、「やったな!」と言われたことが、男同士の絆ができたみたいな感触が、なんかとても嬉しくかったことを、今でも覚えています。この初めての一人旅の記憶としては、なぜか、こう溌剌とした開放感のような記憶はありません。夏の野宿は暑くて汗臭かった記憶や、野宿しているとホームレスの人たち行動習慣がよくわかるな、朝が大層に早い人たちなんだな、と行った野宿体験の思い出が強いですね。旅のとてつもない開放感を味わっていくのは、次の春休みに海外へ行ってからです。

 さて、いっときして、また2ヶ月間の春休みがやって来ました。春休み直前のある日曜日の午後、高校時代の友達で集まってフットサルをしました。夕暮れの寒空に、みんなで着替えながらお話しをしていたら、クラスで仲良かった女の子が、「春休みにね、私、カナダに留学に行ってくる」って話していました。
  

 それで、その言葉を聞いた時に、ぼくは、なんかとてもドキッとして、「あ、また差をつけられる」と思ったのです。一浪の劣等感があるというのに、「あちらは、海外進出も果たしているのか」との真実に、驚愕しました。それで、負けたくないと思って、海外のことなど実際の行動の視野に入れていなかったのに、家に帰ってすぐ父に「英語を勉強したいんだけど、2ヶ月も春休みがあるから、語学留学したいと思っているのだけど」と相談してみたら、「サポートしてあげるから、行ってこいよ。英語は勉強するべきだ。いま勉強しておけば、今後、役に立つぞ」と、即答してくれました。父がこのように即答してくれたのも、父本人が海外に出て、英語が必要な場面をいろいろと体験をしてきたからかもしれませんね。

 滞在先には、ロンドンを選びました。アメリカでもなく、カナダでもなく、ロンドンを選んだ理由は、サッカーもあるし、そのときテクノが大好きで、テクノのクラブで遊べるし、ファッションもあるし、ヨーロッパの近代建築も見て回れるっていう理由でした。半分以上、遊びの目的理由ですね。遊学です。

 さあ、初めての海外一人旅、ロンドン留学です。