7/2 Sun.



約1ヶ月ぶりの四万十の我が家へ、車を走らせる。高速を降りて、四万十川沿いへの道へ。四万十の景色と再会して「帰ってきた」という感覚になり、落ち着いた気持ちとなる。見慣れた景色は、すっかりと夏の旺盛な緑の厚みのある景色となっている。車窓からの山の木々の旺盛さの先に、不在の我が家の草を思いやる気持ちが頭をもたげる。

家に着く。予想通りの草に覆われた畑。しばしは草刈りの毎日になりそうだ。草の下に畑の野菜たちはまだ息づいているだろうか。我が畑の野菜たちを体に摂取したい。繋がり、グラウンディングしたい。違う土地の食の日々から、またこの野菜たちの命からHOMEへ戻っていきたい。

しばしの旅から帰ってくると、暮らしのエンジンがかかるまで数日の調整期間を要するのが常だが、早速に草刈り機のエンジンをかけようという気になった帰宅当日の午後だった。しかし、容赦のない四万十の陽気にたじろぐ。なので、まずはと、旅の荷物を片付け、布団を干し、家の片付けとノロノロ低速運転でしていたら夕刻となり、草刈りはまたの後日となった。

久々の我が家にて、夕刻の瞑想をする。

瞑想の日々を送っていた三週間だったので、そのままに家でも瞑想がよくできる。瞑想一時間すぎて、そのままもう一時間瞑想しようかと目を瞑っていたのだが、眠気が勝ってきてどうしようもなくなってきて、今日一日はここまでにしようとそのまま布団に倒れ込んだ。夜7時。

7/3 Mon.

目が覚めると、もう5時半過ぎだった。

「もう」というのは、いつもは4時に勝手に目が覚めて起きるのが習慣なので、随分とゆっくりと寝たものだ。昨晩は19時過ぎに床についたものだから10時間半も寝たことになる。しかし、これもいつも通り。出張から久々の我が家に帰ってきた初夜は、いつも10時間ほど寝る。旅の疲れを、寝室まで木霊してくる四万十の水の音がたっぷりと洗い流してくれるのだろう。やはり、我が家は、よく寝れる。

起きると、すぐに雨が降ってきた。久々に海へサーフィンに行きたかった思いや、草刈りの段取りのことなど、今日一日の予定が頭を巡る。

朝の瞑想。

一時間が過ぎても、そのままにしばし瞑想する。よく瞑想できる。瞑想センターで得た感覚を大切に、日々にその恩恵を自分にも他者にも生かしていきたいとの思いがより強まっている。そう、この恩恵をより日々に生かしていけるとの手応えを掴んで帰ってきたのだから。

さあ、執筆の日々にもまた戻っていこうと、座布団から立ち上がる。『執筆=朝の珈琲』との習慣の紐付けにより珈琲を淹れようと思うが、豆がないことに気づく。すぐさま執筆に取り掛かりたい思いもありながら、まずは、生豆を焙煎をすることにした。炭を起こして、雨音と共に、焙煎する。雨音と豆が煎られていく匂いと共に、内省しながら静かに行う。瞬間瞬間に気づいている練習をする。内に気づいていると、外に気づくことがたくさんあるようだと、気づきがたくさん訪れる時間となった。

煎りたての豆をドリップして、いざパソコンを開く。日記を描き始めるが、なかなかに言葉が以前のように滑り出さない。そのことに、少し苛立ちの感覚が頭をもたげる。しかし、その感覚を自覚しながらも取り合わずに、とにかく書く行為をすることに。書くことの行為は、書けないことの苛立ちの感情のレイヤーとは別の場所にあると、内側の事象のファイル分けをする。すると、感情は行為をやめる理由にはならず、行為自体は立ち止まらずに進んでいく。そんなことを、焙煎することへの面倒臭さに気づいていたので、早速に実践された。

行為に集中していると、気づけば、反応により『苛立ち』とレッテル付けされたその感覚は、すでに消滅していた。

しかし同時に、現実も見つめよう。『書くこと』がなかなかにできていなかった日々。なかなかに言葉が滑り出さない今の私。『書くこと』のエンジンの再開にも、しばしの慣らし運転が必要であるようだ。ならば、慣らし運転をするということだ。

旅から日常に戻る、喜びの朝。