「旅支度」

 

海を渡り、旅に出る。

2010年にニュージーランドから帰って来てからずっと日本にいたから、約4年ぶりのことである。

 

あんなに旅をして来たのに、どうしたことか、とてもドキドキとしている。

久しぶりのことだから、あの頃の感覚が閉じているのは致し方ない。

 

旅支度に、カリンバ・ケースとカメラ・ケースをヌメ革で作った。

今は使い古されてちぎれてしまい、手元に帰って来た、犬の梅さんにあげた首輪に付けていたターコイズと赤のビーズを付けて。

(もともとは実家の柴犬のキョンに作ってあげた首輪だったけど、太ったキョンには入らなくなってしまったのです。)

こうして、必要な物を自分の手で作っていく感覚は、「身の回りの物は何でも自分で作ろう」と思っていた旅の頃を思い出す。

まさに、よい旅支度である。

 

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やはり、物作りは楽しく、大好きである。

 

そう思い、ニュージーランドの旅から帰ってきたら、靴作りを再開しようと思っていながら、もう4年が過ぎていく。

 

ふむふむ。

 

どうやら、必要な物を作る必然性の経過から生まれてくる創造を、ぼくは楽しんでいるのかもしれない。

そうして、必要な物が自分の手で創り出せたことへの充実感と、実際に使ったときの喜びと気付きに酔いしれるのである。

 

ぼくがこの数年、靴を作ろうと思っていた動機は、「生産」である。

シュー・クロークを携えたぼくの日本での暮らしは、「靴を作る」必要性は必然ではなかったのだ。

 

東京から四万十に越して来てからは、家を直し、棚を作り、薪をわり、掘りごたつをつくり、畑を耕し、種を蒔いた。

みな必要を充たす創造である。(あ、あ、賢治の「農民芸術概論」よ!!)

 

四万十に越してからというもの、「無いこと」への「暮らしの美」をより一層感じる。

それは、自然に充たされている環境のせいなのか。

それは、内に充たされて来たということなのか。

 

美しい物に囲まれ、囲まれすぎて、見苦しくなる、息苦しくなるということもあると思う。

必要な物が必然的に必要なだけそこにあれば、心地よいスペースが残ると思う。

 

そうした環境の変化から、心境の変化から、「物を作ること」に抵抗を感じている自分がいると認めざるえない。

(どうしてか、そう認めてしまうのが長い間怖かった。実に、怖かったのである。。。)

 

その反面、今は、自然に対しての創造が、ぼくにとってより健全なものに感じている。

ぼくの暮らしでは、畑仕事がその一つである。

また、自然に対してもエゴのある仕事と、エゴの介入していない自然な仕事とがあるだろう。

そういった意味でも、畑は面白い。畑の有様にいろいろなことが反映されている気がする。

 

 

さてさて、

 

旅に出る、

 

4年もの間、旅に出なかったのは、出れなかったのではなくて、そこに、東京での暮らし、四万十の暮らしがあったからだ。

いまここで旅に出るのは、ここの暮らしを置いて行くのではなく、旅に出ることがやって来たからだ。

 

旅に出ても、自分が想いを寄せ、つながっているこの土地に帰って来れるという感覚はぼくにとって新しく、実に温かいものだ。

その温かさが、今までと違った旅先の景色を見せてくれることだろう。

 

暮らしがあるから、旅がある。

旅が、暮らしをより色鮮やかなものにしてくれる。

 

 

 

ぼくは、旅に出る

 

12年間想い続けた

 

ヒマラヤへ

 

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