ぼくの旅路:その6

番外編 2

 

【エゴを見つめる・ネイティブアメリカンの教え】

当時のわたし:26歳

[エゴイズム:社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方。利己主義]

グラスホッパーという、小柄だか浅黒い肌のたくましい体にトライバルなタトゥーが施されたネイティブアメリカンの男がいた。ぼくたち日本人をよく気にかけてくれて、いろいろなお世話をしてくれた人だ。あの夏、ぼくたちのサウスダコタ滞在はずっと彼とその仲間たちに導かれていった。

 グラスホッパーの歳は、当時のぼくよりもひとまわりぐらい年上だっただろうか。正直なところ、彼の正確な年は覚えていない。ただ、彼の知識の広さと、見解の深さ、そして慈愛にみちた振る舞いに、日々驚かされ、学ぶべきことが多い頼れる兄貴という存在だったことが今でもこころに残っている。彼は、自然のサインを読むことに長けていて、空に、大地に、幾層にも重なった森の奥にさまざまなサインを見つけた。「おい、あの空高くにイーグルがとんでいるぞ」「おい、あの闇の奥からフクロウの声が聞こえてきたぞ」「この足跡は、ごく数時間前に通り過ぎて行ったものだ」「とまれ、いまあの林のむこうになにか四つ足の動物が通り過ぎている。あちらは、こちらを警戒しているようだ」その度に、ぼくは目を凝らし、耳を澄まし、こころを広げようとするが、その実態を自らで見つけられることは、ごく稀であった。そして、彼はその自然から送られたサインの先の予兆を語ってくれたのだった。ここで、その例を幾つかあげたいところだか、残念なことに、ここで記せるほどに今の自分の記憶に残っていない。つまりは、彼が教えてくれようとしていたことの真意を、自分のものにできるほどの深い理解に達していなかった、ということのなのだろう。

 月日の流れは短くとも、毎日が密度の濃いしばしの時を共に過ごした頃、彼から一つの提案がなされた。「ぼくがこれから踊るサンダンスに、君たちも一緒にきてほしい。ぼくのサポートをして欲しいんだ。」

 夏至の頃にぼくたちがこの大地にやってきた頃を思い返すと、それは、もうすでに一つの季節の折り返し地点を過ぎ、次の季節の色がほのかなグラデーションを与えながら少しづつ吹き込んできているのを肌に感じる頃だった。もしかしたら、それはただ単に、ぼくのあの夏の記憶の曲線が、このサンダンスによって頂点を迎え、そこから一気にこの偉大な夏は終末へと走り抜けていったこと、そんな個人的なこころの時間軸も大きく影響しているかもしれない。彼らと共に過ごした日々、それは、自然の大きな営みを常に意識させられるものであった。確かな大地の季節の息吹の時間軸の縦糸に、こころの時間軸の横糸が織り込まれていく。大きなタペストリーが織られ、そこに実に多くの学びが書き込まれていった。そう、それは自分自身がこの身、このこころを以て、あの時、あの場所に存在していたエレメント、大地の風、小川のせせらぎ、太陽の輝き、そして、彼らの息づかい、それらを直に体験した学びであった。それ故に、時を経た、遠い地、いま、ここ、からでもこころに刻まれたその字をなぞれば、時空を超え、彼らと、そして、その先の大いなる意思へとつながり、ぼくのこころに光りが灯される。その光りの下、ぼくのこころは強さを取り戻す。真の強さ、すべてのものたちのためへの決断をするための、真の強さ。

そう、時空を超えた、いま、ここにも、正しい意識のチャンネル調整がなされたとき、あの夏に開かれた光りの経路はふたたび光り輝き、その先の道を指し示し続けている。

***

 夏のおわりを意識しはじめたあの頃、グラスホッパーからぼくたちに投げかけられた言霊、「サンダンス」。太陽はその響きに共鳴するかのごとく、輝きをさらに増し、地上のものたちの身を焦がすかのごとく、大地に降り注いでいた。まだ、夏は終わらない。大いなる意思は、この旅路の最大の学びを、これから与えようとしてくれていたのだ。