ぼくの暮らしの場である、四万十にてTABI食堂と音楽会を2月2日に開かせていただきます。会場は、ぼくと同じ東京からの移住者家族が主催するMONDENKINDという場所です。そこは、かれらが畑を営み、犬猫、鶏、そして馬とともに自給自足を実践する美しい里山の景色が広がる、暮らしの場でもあります。

 四万十川河口の街・中村から、川沿いの山間の集落を抜けながらへ車を走らせる。谷に差し込む西日にひかる田畑。車窓の向こうに流れる景色が緩やかなカーブを描いていったその先に、その景色は広がっていた。「はて、タイムスリップしてしまったのか?」と、懐かしさがこみ上げてくる景色だった。川を挟んだ向こうに、石垣で組まれた緩やかな段々畑が広がる。その上に立つ平屋の家、煙突から煙がのぼっている。家も畑も、どこもかしこも、手で生み出され整えられたぬくもりが、川向こうからでも伝わってくる。そして、その景色の中に、大きな大きな茶色い馬がたたずんでいる。その馬の姿がこの風景を特別なものにしているのは確かである。その馬としても見慣れぬほどの大きな大きな図体と、そこに広がる暮らしの営みの風景に「これが、農耕馬というものであったであろうか」と、現世以前に我が目に映り、記されたであろう記憶の風景につながる。あたたかな思いが込み上がり、声が漏れる、「うつくしい風景だな・・・」。

 

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(photo from 光猫舎HP)

 

 

* 我がこころの構図 *

『馬と暮らす → あこがれ・夢 → いつか(来世?)、どこか、島国から海を渡った遠い地で・・・』

 その風景は、我が家から山を隔て、車走らせ1時間の所に広がっていた。我がこころの構図は、かれらの姿によって、見事に骨格を一本、二本と引き抜かれた。おかげで、いまは「馬と暮らすのは、ここ日本でも、現実の選択肢の一つである」といった心持ちにまで、ぐらぐらと傾いている。

 

 

かれらのHPに記された、地元の人の言葉

「昔の百姓がどんなに辛くても『明日も(来年も)また頑張ろう』と思えたのは、そこに美しい風景があったからだ。そこには働く馬の姿もあったよ。」

「美しい」とは実に曖昧なことばで、その価値観は人それぞれ千差万別だ。そして「美しい風景」と「風景」が条件に加わると、そこには一個人ではない、様々なレベルのことが内包されてくる。経済、行政、地域社会、ひとびとの生き方とお互いのバランス・・・。けど、どうしたことか、人々の魂が、それはもう一同に打震えてしまう「うつくしさ」というものは存在するもので、また、それを持続していこうと思うと、自ずと方向性が決まってくるように思える。物事には持続していく物と、持続しないものがあるから。言い換えるならば、自然の営みに沿ったものと、そうでないものがあるから。ぼくは、そんな「うつくしさ」と「方向性」を求めて、いまの暮らしをしているのだと思う。ぼくも、馬とともに(馬が居ずとも)里山に暮らし、うつくしい風景を何世代先にも残していきたい。

 

 

 ここ数年は、活動の半径を狭くしていって、なるべく暮らしの場の密度を高めていきたいと思っていたので、今回、この場所で、こういった人々との催しは、今後の自分の方向性にもつながっていくきっかけにもなると思ってるので、とても楽しみだ。そして、何よりも、馬といっしょに時間を過ごせるのは、やっぱり胸高まる特別な思いである・・・。

 

光猫・馬

(photo from 光猫舎HP)

 

* かれらは、馬と共に「美しい風景・里山」を残していくためのプロジェクトを始めていて、そのためのクラウドファンディングを募っています。かれらの思いを綴った文章を読むだけでも、とてもすばらしいので、ぜひ覗いてみてください 。 →  

* かれらの屋号である「光猫舎」のHPに綴られた、日々の暮らしから紡がれた言葉たちも、とても素晴らしいです。 →