レタス講座 3/24 @ KIITO・神戸

へ向けて書いた、レタスの作文です。

 

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【 レタスを思い返してみれば、 】

ささ たくや

 「レタスの作文を書いて欲しい」とはっぱや加古店長に言われて、「はぁ、自身のレタスとの思い出を語ればいいのかな?」と解釈しつつ、頭に浮かんだのは、小さな頃に親によく連れて行ってもらった近所のファミリーレストランのハンバーグ・プレートだ。その大きな白いお皿に、そこにあることの意図をまったく感じさせずに、なんだかとりあえずの決まりごとのように配色されている、希薄な緑色のエリア。そのなんだか近寄り難い蒼白緑地地帯は、クシャクシャとした玉レタスの破片をメインに構成されており、その切り口の断面はすでに茶色く変色している。そのことに、食べることを躊躇する小さな頃のぼくであったが、「好き嫌いをしない、出されたものを残さない」信条の家訓をもとに、さらに難敵なざらりと粒子の粗い八分の一カットのトマトとのタイミングを見計らいながらも、白飯とハンバークの残量がどんどんと少なくなっていっていることに、焦りを感じている。蒼白地帯にドロリとかかった得体の知れないドレッシングの濃厚さが、唯一の突破口として残されている・・・。

 このようにレタスのことを思い返してみれば、なんとなくスペース埋め合わせサラダの、お決まり玉レタス破片(断片は茶色に変色)が、ぼくのレタス遍歴の前半をまるごと占めている。他の種類のレタスの存在を知るのは随分と後のことだ(そもそも、ぼくが小さな頃は多品種などお店でお目にかかることなど滅多になかったように思う)。ヨーロッパの街角で出会ったサンドイッチ、そこにはみずみずしいサニーレタスが千切られることなく、さらりと一枚そのままの姿で収められていた。一緒に挟まれた他の具材を引き立てながらも、準主役級ぐらいにその瑞々しさと歯ごたえは存在感を口の中で広げていた。招かれた友人宅でのガーデン・ランチ、大きなガラスのボールに盛られたシーザーサラダ。チーズとの絡みによってロメインレタスは、即座にお代わりをおねだりしてしまう程の食べ応えであり、その潜在能力をいかんなく発揮していた。このような海外でのレタスとの出会いは、自身のレタス論再考を余儀なくされ、同時に、いままで日本で共に時間を過ごしてきた、ちぎられた(断片は茶色に変色)玉レタスへの申し訳なさが募るばかりであった。「あぁ、もう少しでも、日本のスタンダード食卓に置いて、彼(玉レタス)の長所をいかす意識があったのなら、彼の人生は大きく異なっていただろうに・・・」、と。

 そんな思いを胸に携え、レタス講座へ向かいたいと思っています。

 

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おかげさまで、当日は、素晴らしいレタスの一日となりました。

ありがとうございました。