4月15日(土)・雨

 昨晩から降り出した雨は、今朝もシトシトと続いている。正確には、夜明け前の暗がりの中、障子の向こうの音たちを聞いている。シトシトというより、もう少し強く降っていそうな音だ(シトシトとザーザーの間ぐらいの雨足を、なんと言葉で表現するのだろう)。しばらくすると、チュンチュンと鳥たちが鳴き初めた。鳥の囀りと共に、夜が明けてきたことを知る。今日の始まりの世界の物語が、ひとつひとつ音となってやってきている。

 朝四時からの瞑想中にはたくさんの音が聞こえた。いや、音はいつも耳に届いて聞こえているはずだろうに、こころに浸透し響いていなかった。音たちはいつもあるはずのなのに、心のざわつきが、その繊細な音たちを打ち消していた。こうして、こころに音の一粒が響き、音をひとつひとつ認識できるということは、音の主の存在に思いを寄せられる。雨がシトシトとなっている音とは、雨のどの状態の音なのだろうか。空から降ってきている落下の音?それとも、家の前の大きな柿の木の新緑の葉に当たる音?鳥たちはどの木立に掴まって囀っているのだろう?その囀りは、いくつもの雨の垂直線をぶつかりすり抜け、この空に木霊しているの?雨に歌うその気持ちは、晴れの朝と違うの?こころが静かになると、世界が賑やかになって、愛おしくなって、まるでお友達が増えたような気分だよ。ねぇ、雨さん、鳥さん。

 そんな静かな時間は、朝4時に起床したからのご褒美だった。食を正したら、目覚めもすっきりして、朝4時に起きるようになった。しかし、昨日はお出かけして予定就寝時刻より遅く床に着いたので、無理に4時に起きなくてもいいやと目覚ましをかけずに寝たのだが、4時にきっちりと目が覚めた。体も十分と睡眠が取れてすっきりとしている感じなので、そのまま起きて瞑想をした。

 食を正すと、こうも習慣が変わるしものだなー、と感心するばかりである。こころの静けさも食によるところが大きいと思う。そこからの、世界との繋がり方も。食を考察する日記が続いていますね。いまの自分は、いっぱい発見、再確認しているのですね。

 そうそう、面白い発見といえば、おととい畑で畝おこしの仕事をいっときしてから、目線を上にあげて辺りをみたら、その草がよく生えた畑のようすがとても調和して見えたのにびっくりした。そのあとも、その光景がずっと続いていた。この日一日は機械を使わず、手作業でいろいろと土に触れ、草に触れ、種に触れていたので、畑との親和性が生まれたのかな?この10年でせっせと植えた花たちも、この春よく花を咲かせて賑やかさを見せてくれている。ついぞ、東京の出張から暫くぶりに家に帰ってきた四月の頭には、そのお花たちの様子にこころ踊って癒されたけど、それは、見た目の美しさにこころ踊ったぐらいで、通りすがりに一見するぐらいだった。そこから、またここでしばしの時間を過ごし紡いでいく中で、その光景も変わってきている。そのきっかけは、寄り添える感覚を再び得たこと。植物たちの目線まで屈んで草むしりしているときに、草たちの間から頭を覗かせている小さなお花を見つけた。その花と対峙し、僕もその世界に入れてもらったような気持ちになったこ。なんだか、いつもの大きな気持ちを脇に置いて、小さな気持ちで寄り添って、自分もそこに在る気持ちになった。その時から、その場を足早に通り過ぎる時でも、足元にその存在をいつも感じている。そんなおかげか、ここ最近は植物たちの賑やかさ、花のささやきもも聞こえるようで、一緒に楽しい気持ち。

 その土地に暮らすとは、そこにある生命と親和性を育くむことなのかもね。