【野良メモ】

四万十・日々の暮らしの回顧録

2018 spring

 

 

2018年2月末 春の種まきの準備に間に合うようにと、年明けからのスリランカ瞑想の日々から帰国。長旅の後の帰宅の一番の楽しみは、畑の様子を覗き込むこと。覗き込むとは、放っとかれっぱなしの畑に奔放に生えた雑草(という言葉をつかうのも、なんだか違和感を感じるようになってきたのだが)たちをかき分けて、まさに覗き込まないと、作物の姿にお目にかかれないから。

けど、今回の留守は冬ということもあって、それほど草が生えていなかった。嬉しいことに、年末の出発前までお世話になっていた葉物類の姿がまだそこに。さらには、あたらしい顔ぶれも。生えている場所から推測するに、半年ほど前の夏播きか、もしかしたらそれ以前の種まきで発芽し損ねた種が、この春に向けて芽を出したみたいだ(まあ、つまりは、ぼくの種まきの技術が未熟ということの証明だ。種まきのタイミングが悪かったのか、土をかぶせすぎたのか・・・)。とにもかくにも、こんな、発見、生命の発見!があるから畑は楽しい。

それから、日ごとに春の陽気がましていき、植物たちがどんどんと芽吹いていく。足下に寄り添う子供の頭をよしよしと撫でるかのような気分で芽吹く様子を微笑ましく感じていたのも束の間、植物達の成長はあれよ、あれよと勢いを増し、あーっ、と言う間に、もうこちらが圧倒される存在に。

四万十に移住してからの大きな財産のひとつに、サーフィンを始めたことがあるのだが(ぜんぜん上達しないので、お恥ずかしくて、あまり声を大にしては言えないのですが・・・)、そのサーフィンの感覚が、普段の山暮らしの野良仕事にも感じる瞬間が多々ある。

日々移り変わり押し寄せてくる、自然のエネルギー、それは、まるで波のよう。途切れることはない。草刈りをして、きれい整えた畑。雨が降り、お日様出れば、また草伸びる。わたしは、その軌跡を整える意図で、再び、山に畑に踏み入る。そこには、わたしが播いた種があるから。その種が発芽し、成長していく環境を整えていくために。しかし、謙虚さを忘れてはならない。ただ、ただ、整える存在であるために。作物が育ち行く命の原動力、それは、ただ唯一の自然の営みなのだから。その流れをこちらの意図で妨げてはならない。その場所は、わたしが自然の動きと波長を合わせる学びの場所である。そうして、日々の営みの中、自然のエネルギーと波長があった時、それは、まるで自分がその大地から地球のコアにプラグインされたかのように、大きな力に全身がチャージされる。ビリビリと手足の指の先まで満たされる感覚。そこに、植物達の命の源を感じる。「この力に、植物達は育まれているのか」と。

 

 

上手く乗りこなしたと思った波

雨が降り、お日様出れば、また草伸びる

さあ、今朝の波、どのように乗りこなせるだろうか