4時半・起床・瞑想

 昨晩は21時に寝たので、6時間睡眠の朝3時に起きるつもりだったが、気持ちよく目覚めた時には4時半だった。昨日は、日課を離れ、友人の子供たちと連なって、遠出をした。子供たちも一緒だったからだろうか、見事な夏休み気分の一日だった。朝一番から山に入り、果樹に潜む仙人の園でブルーベリーを摘ませてもらい、川で泳ぎ、木陰の河原でお弁当を広げて食べた。お重の蓋を開けたお弁当の中身は、びっくりなことに、ぼくが冗談120%でリクエストを伝えた、うなぎと、野菜の手毬寿司だった。川原に腰掛け、里芋の葉っぱにお寿司をくるんで抱えながら、お寿司をつまんで口に頬張る仙人の姿は、見事な絵になっていた。今朝からずっとついている、口の横のブルベリー紫のシミが、さらに見事だった。お腹が満たされると、子供たちは、さっと、みんなのお皿を集め、すぐ下の川へと駆け降りていった。子供たちの、ためないのない自然な動きの美しさは、普段の家での習慣をなぞり上げてのことなのだろうかと思いながら、ぼくもゴザから、サンダルつっかけ、遅れて皿洗いに参加した。「魚が米粒を食べているよ」と子供たちが言えば、川原の緑に戻った里芋のお皿に残るお醤油を、蟻ん子たちがなめていた。山を降り、帰りがけの夕刻に、温泉に入った。まだ日が明るいうちの入浴で、なんとも贅沢な気分に浸った(自宅でも、このぐらいの時間(17時過ぎ)にお風呂に入ってもいいかもしれない。明るいウチの入浴は、その後の夜の時間にどんな変化が生まれるかな)。夏を存分に楽しんだ、いち日となった。その分に、昨日の晩は、ぐっすりと眠ることができたのだろう。ここ最近は、暑さと蚊のせいなのか、なかなか深い眠りには至っていなかったから、とてもありがたい寝坊だった。

6時・YOGA

 いつもの、瞑想一時間を終えたところで、6時近くとなっていた。これから続く日課の流れを保つために、今日は寝坊でほぼ時間が残っていないYOGAの時間を飛ばそうかと考えた。しかし、「少しでもいいから、毎日やろう」と決め、30分間YOGAを行なった。このような意思決定ができたことに、ある変化が自分の中に起きていることを自覚する。「毎日やろう」の言葉は、「毎日やらなければいけない」から「毎日やりたい」の気持ちへ、シフトしてきている。少しの時間でもいいから、朝のYOGAの没入の時間を持ちたかったのだ。なるほど、これが、「習慣」の力なのか。これからこの先、これが、「一週間の習慣の力」、「一ヶ月の習慣の力」、「三ヶ月の習慣の力」、「一年の習慣の力」となっていったとき、「習慣の魔法」の効き具合の変化を見るのが楽しみである。「日課=行為の習慣化」とは、毎日、自分自身に魔法をかけていっているような気分である。

6時半・野良仕事

 ここから、いつもの時間割に戻った。今日も暑くなりそうだ。先日刈った、裏山の草が刈りっ放しになっていたので、集めて、畑のマルチにしようと思った。天気予報を見たら、今週後半は、念願の雨が降る予報なので、その時に米ぬかと一緒に撒ける準備をしておこう。しかし、今朝はやたらに頭がボーとする。今までの経験からするに、昨日の食事の作用だ。昨日は、楽しさのあまり、随分とご馳走を頬張ったものな。野良仕事を続けるが、一向に、頭の中は雲に覆われている、霧の中、なかなかに作業と気持ちを出会わせることができない、もどかしい。しかし、なんとか頑張って、マルチ集めのタスクをやりきる。そこで、時計を見ると8時過ぎ。作業時間終了の9時まで、まだ十分な時間がある。集中していないと、時間はこんなにも長く感じるものか。ここで、普段なら、「今日は気持ちが乗らないし、別のことでもやろうか」となっているのだが、「日課」の強制力がここで効果を発揮してくる。この強制力を味方に呼び込んで、なんとか、決めた9時までは「野良仕事」の「日課」からは外れないようにとの、決心の中心軸が倒れてしまうのを、なんとか防げた。「日課」というものを意識しはじめてから、小学校からの学生時代の「時間割」のことを思い出している。いまとなってみれば、毎日コツコツと、異なる分野の学びを積み重ねられたのは、「時間割」の存在が担った部分がとても大きいだろう。しかし、学生時代の授業風景を思い返してみれば、「苦痛」が全般を占めている。ぼくは、いま現在のことを綴る時に、「日課」や「強制力」などを、自分を助けてくれるとても頼もしい友人として、この言葉たちを選んで使っているのだが、学生時代の経験にこの言葉を照らし合わせてみると、「苦痛」と対になっているようだ。この気持ちの違いは、どうしたことだろうか。考えるに、「受け身:やらされている」と、「自発的:やりたいことをやっている」ことの違いだろう。意欲的である、ないの違いは、時間の長短の尺度にまで作用してくるのだから、興味深い。

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 さてさて、今朝の野良仕事である。頭がボーッとするをどうしたものか。「脳みそが働き出すのを待つ」作戦を諦め、「脳みそを働かせる」作戦に変更することにした。「受け身の:待っている」から「自発的な:働かせる」へのシフトである。この気持ちが伴わない時間への義務(=9時までは野良仕事をする)は、授業の「苦痛」にたちかえっているのではないか。さあ、どうしたら、ボーッと反応が悪い脳みそを、こちらから自発的に訴えかけて、ハッスルさせることができるだろうか。そこで、今朝の作業時間の目的である「裏山を片す」の枠を踏み出さない範疇で、より脳みそをハッスルさせるために、「谷の掃除をしよう」ということになった。この谷は、数年前に、落ち葉や枝などを、取り除いて、大掃除をしたことがある。もう何年分もの堆積物が溜まっていたのだろう、なかなかに大変な作業であったが、頑張った甲斐あり、掃除の後から、大雨の時には、山から谷水が現れるようになった。その作業時に出た大きな枝の置き場に困り、思いついたアイデアが、その枝を利用して、この場所にあった造形物を作ることだった。これが、【行為】×【モチベーション】=【作業効率・倍増!】の方程式にバッチリ当てはまり、創造へのものすごい喜びによる没入に至った。その、時間を忘れての作業か、我を取り戻した時には、そこに立派な水門が立ち現れていた。谷もすっかり、綺麗になっていた。いまとなっても、その時の創造の喜びが、谷に充満されている。今朝も、谷を横切り水門をが視野に入ったときに、こころが、こちょこちょと、こそばられるような感覚を覚えた。「あ、ここだ!」、カチリと「行為のビジョン」と「気持ち」がはまった。谷の整理&水門の修復作業をしよう。枝を拾い、集めて、立てかける。考えることなく、枝を拾って、集めて、立てかける。この反復作業は、停滞していた血流を脳みそへ送るポンプアップの作業にバッチリで、ものを作る楽しみのクラクションとともに、脳のエンジンがようやく回り出した。9時になり、裏山から家に降りてきて、壁に貼られた「To Do リスト」にずっと書き込まれたままになっていた、「谷の整理」の項目に、チェックマークがされた。

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9時・川へ水浴びへ

川から戻ると、今朝は睡蓮が三つ咲いていた。

昨日一日家を留守にした結果だろうか、いつもより、朝の掃除・洗濯・片付けに時間がかかった。

コーヒーを淹れて、デスクに向かうのが遅れていくことに、ソワソワとした。今や、この執筆の時間が待ち通しくて仕方ない。この半年は、まったくにパソコンも開かず、文書を書くことを怠っていたのに。

ここにも、「習慣」の魔法が効いてきている。

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